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玉造稲荷神社夏祭で「なにわの伝統野菜」を食す

15日、16日は玉造稲荷神社夏祭だ。
15日の宵宮では参拝者に「くろもん寿司」が振る舞われた。
玉造くろもん2.JPG
ネタは神社境内の一角で栽培した越瓜(しろうり)を昆布で味付けしている。
その果実は長さ約30cm、太さ約10cmの長円筒型で、濃緑色で8~9条の白色の縦縞がある。
「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」と呼ばれ、「なにわの伝統野菜」に認証されている。

江戸時代前期に西成郡木津村・今宮村で促成栽培されていた越(白)瓜が祖で、徐々に「玉造村」にも広がってきた。
「大坂城玉造門」付近で栽培されるようになり、「玉造門」が黒塗りで「黒門」と呼ばれていたことから名付けられた。

江戸時代中頃には「玉造村」は幕府より酒造りの権利(酒造株)が与えられ、多くの酒造業者が集まった。
酒造りから出る酒糟に「玉造黒門越瓜」を付けたかす漬けは「浪花名産」に数えられた。
大阪市立玉造小学校からは1700年代中頃の酒造竈が発掘されており、その名残を伝えている。

明治以降の近代化・都市化で、玉造から「玉造黒門越瓜」をはじめとした市場、田畑、酒造業者が次々と姿を消していった。
この地に「玉造黒門越瓜」が戻って来たには平成14年だ。
玉造くろもん1.JPG平成16年には神社の境内に石碑が建立された。
江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた「大坂」は食文化が栄え、その食文化を支える大阪独特の野菜が多くあった。
しかし戦後、農産物の生産性を上げるための品種改良や農地の宅地化、食生活の洋風化で地域独特の歴史や伝統を有する品種が次々と消えていった。
このような伝統ある野菜の見直す取り組みが始まった。
大阪府では「なにわの伝統野菜」の発掘して認証制度を設けている。
認証基準として3項目挙げられている。
・ 概ね100年前から大阪府内で栽培されてきた野菜
・ 苗、種子等の来歴が明らかで、大阪独自の品目、品種であり、栽培に供する苗、種子等の確保が可能な野菜
・ 府内で生産されている野菜

大和川流域に関わる「なにわの伝統野菜」として大阪市に「玉造黒門越瓜」や「勝間南瓜(こつまなんきん)」「田辺大根」など8品目、羽曳野市に「碓井豌豆(うすいえんどう)」が認証されている。

参考:
玉造稲荷神社
http://www.inari.or.jp/menu.html

大阪府「なにわの伝統野菜」
http://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/dentou.html

「七夕のゆうべin四天王寺」へゆく

6日~8日、四天王寺境内で「七夕のゆうべin四天王寺」が催された。
大鳥居から極楽門に至る参道には七夕の吹き流し、極楽門から伽藍へ参道に全長27m、笹400本の「笹トンネル」に短冊が風に揺らめいた。
四天王寺七夕祭1.JPG
7日午後7時30分、「笹トンネル」の天井に設置された3万球のLED照明が点灯されると「天の川」が現れた。
四天王寺七夕祭2.JPG
『万葉集』には七夕を詠んだ歌が130首以上ある。
7月7日に織姫と彦星が天の川で出会う伝説は遅くとも7世紀後半に中国から伝来した。
その伝説に古代からの収穫祭を兼ねた祖先や神様を祀った祖霊信仰や中国から遣唐使によってもたらされた技芸上達を願う祭りの「乞巧奠(きつこうでん)」の日本と中国の信仰や行事が混ざって定着したという。
奈良時代には今の七夕の原型のような宴と祀りが宮内では行われていたという。
平安時代には供物台に野菜や果物、天の川に見立てた琴などを置き、五色の糸や梶の葉が飾られたとの記録もある。
江戸時代になって現在の七夕は五節供(ごせっく)とともに始まった。

今の七夕に見られる「五色の短冊」は金銀の針に五色の糸をつけて飾ったりしたこと、願い事を書くのは「乞巧奠」の名残だ。
かつては「七夕」を「しちせき」とか「なぬかのよ」と読まれていたが、「棚機(たなばた)」から「たなばた」と読まれるようになった。

七夕は7月7日が一般的だが、地域によっては約一か月後の旧暦の7月7日(今年は8月9日)に行われる。

「遣唐使船」がゆく

26日と27日、平城宮跡内にある平城京歴史館で「阿倍仲麻呂遣唐1300年祭」が行われた。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は717年に第9次遣唐使として唐の長安に留学した。
来年はそれから1300年目を迎える。
阿倍仲麻呂といえば、「百人一首」に選集されている有名な一句がある。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
753年に帰国を決意した際の送別会でこの望郷の和歌を残した。
しかし船が難破して長安に戻ることになって想いは叶わず、770年に長安で亡くなったという。

午後1時からオリジナル劇『阿倍仲麻呂伝「天空の月」』が行われた。
阿倍仲麻呂のほか吉備真備や玄昉、井真成らの遣唐使が登場して、遣唐使としての希望を三笠山を眺めながら語り合った。
遣唐使船1.JPG
「遣唐使」とは日本が唐に派遣した使節のことで、630年に始まってから894年に菅原道真が停止するまで20回遣唐され、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に貢献した。
空海もその一人で、807(大同2)年に唐から帰国してから奈良時代の前期密教に対して大日経をもとにした中期密教をもたらした。

7世紀の遣唐使節団は朝鮮半島を経由して渡唐したが、朝鮮半島との関係が悪化した8世紀には九州から東シナ海を渡って直接唐へ向かった。
そのため難破や漂流の危険も高まり、無事に渡ることができたのは平均6割ほどだったといわれ、まさに神頼みだった。
空海が乗船した船も南へ漂流してかろうじて着岸できた。

その遣唐使船は全長約30m、最大幅約9.6m、排水量300トンで、乗員140~150人のうち水夫が半分で、約13mの帆柱が二本あって無風の時は漕ぐ構造で、順調に行けば一週間ほどの航海だった。

2010年には「平城遷都1300年祭」に合わせて、当時の遣唐使船が復原され、大阪港・天保山から広島・呉、福岡の門司・博多、長崎・五島列島に寄港しながら、中国・上海の上海万博会場へ航海した。
遣唐使船2.JPG
「平城遷都1300年祭」で開館した平城京歴史館は6月30日で閉館となる。
2017年度には平城宮跡歴史公園拠点ゾーンの一部として生まれ変わり、復原遣唐使船は移設・整備される予定だ。

参考:
阿倍仲麻呂遣唐建党1300年祭
http://heijo-kyo.com/nakamaro/

平城宮跡歴史公園拠点ゾーン整備計画
http://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/basic/basic.html

平城京跡の「弥生のムラ」をゆく

「平城京左京三条二坊十四坪の下層遺構」の現地発掘調査説明会に参加した。
場所は近鉄新大宮駅から南西へ徒歩約10分の奈良市役所の南向かいの奈良警察署跡地だ。
東に佐保川、西に菰川に挟まれた位置にある。

昨年12月には奈良時代の建物や井戸などの遺構の現地説明会を行われた。
今回はその下層が調査された。
調査区の東南部は近年まであったため池 (東池) で消滅しており、それを除くほぼ全域で水田遺構が確認された。
約7㎡の 「小区画水田」が多く、3~50㎡の区画が約 500確認された。
ひとつの田んぼを小さく区画するのは、起伏のある微地形に水平面からなる田んぼを確保しやすくするため、湛水時の水田耕作土下への浸透による水抜けを小さくするためなどの諸説ある。
田んぼを区画する畦畔(写真の白い線)には、畦幅 1m弱の大畦畔と 畦幅30cmほどの小畦畔があった。
平城宮跡田んぼ2.JPG
調査区の東南部にあった「ため池 (東池)」が緩やかな高まりで、全体として調査区の東から西へ「棚田」のように水が流れていた。
そして北辺で確認された流路から水を引き入れ、出土した流木や木材などが「堰」だった可能性があると考えられた。
平城宮跡田んぼ3.JPG
水田遺構を覆う堆積層から収穫具である石庖丁が4点、 流路を埋めた堆積層から少量の弥生土器片が出土したことから、水田遺構の年代は約2300~2400年前の弥生前期の可能性が高く、中期には埋没したと考えられている。
ただ出土遺物が少なくて特定はされていない。
出土遺物が少ないのは、 当時の人々によって持ち込まれて残された無機的なゴミが少ないためだという。
平城宮跡田んぼ1.JPG
(上層は弥生中期、下層弥生前期と推定)
御所市の中西遺跡・秋津遺跡など奈良盆地西南部で大規模の水田遺構が奈良盆地北部でも確認できた意義は大きいという。

参考:
奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/
 

わが町の路地(ろおじ)をゆく

今年も明治安田生命「関西を考える会」の小冊子をもらった。
「関西の豊かな文化・歴史そしてポテンシャルを探ろう」と1976年から毎年、異なるテーマで小冊子が刊行されてきた。
昨年は「橋」で、今年は「路地」だった。
関西では「ろうじ」と呼ぶそうだ。

「路地」といえば、「井戸端会議」を想起する。
かつて集合住宅の住民が共同の井戸に集まって水くみや炊事・洗濯などをしながら雑談していた。
井戸は住民間の利便性から集合住宅の間を通る私設生活道路の中央付近の広い場所に設けられた。
その周りには張り紙などで情報共有されていた。

わが町「平野郷」にその面影が残っていた。
平野本町通商店街から南へ路地を入ったところに「西脇口地蔵堂」がある。
その脇に手押しポンプ井戸が残っている。
今は防火用水として使われている。
人が集える広場には掲示板もある。
ここは「平野郷十三口」の一つで地蔵堂前の東西の道は環濠跡だ。
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全興寺(せんこうじ)の一角にある「おも路地(おもろじ)」は、井戸のある路地空間を再現している。
土・日曜日にはベーゴマなどの昔の遊びや紙芝居が行われ、子供はもとより老若男女が集う。
路地2.JPG
私の小学校区の加美南部地域には旧家の「奥田邸」がある。
奥田家は江戸時代に「河内国鞍作(くらつくり)村」の庄屋で、付近の10ヶ村の庄屋代表を務めた。
正面の長屋門、主屋をはじめ東の米蔵2棟、西の乾蔵など7棟が1969年に国の重要文化財に指定された。
主屋は本瓦葺の庇(ひさし)の上部は茅葺となっている。
毎月第4日曜日に一般公開(事前に電話予約要、料金大人300円 )されている。
私は30数年前に小学校の社会見学で訪ねたのが最初で最後だ。
駅へ行く途中にあるが、街区の奥地にあるためにその存在を意識することがなかった。
それが最近、街区の車通りに高齢者施設ができて、「奥田邸」に通ずる路地の一部が広がった。
石垣の溝のある路地の風情が一部で失われてしまったが、住民の目に付く機会が増えて関心が高まっていくかもしれない。
路地3.JPG
「路地」とは、本来は「露地」と表記され、屋根のある建物以外の覆うものがない土地や地面のこととされる。
ちなみに建築基準法第42条で定める「道路」とは、「幅員4m(特定行政庁が指定した区域内では6m)以上のもの」であると規定されており、路地は密集市街地などでは家屋の間に便宜的に設けられた狭い道や家と家の間の狭い道、通路などのことで、「道路」とはみなされていない。

路地は車社会にあって生活するには便利とはいえないが、そこには住民の生活感や住民以外の人が入りにくい怪しげな雰囲気が漂う。
そんな路地が駅前や商店街など町の再開発で失われている。
上町台地周辺にはまだ井戸のある路地が残っている。
そこでの住宅の新築の際には建築基準法に基づくセットバックで路地が拡幅されていく。
路地5.JPG
その一方でその魅力を再発見して町づくりや観光資源として活かしていこうという取組みがある。
2002年と2003年の二度の火災で焼失した「法善寺横丁」が元の町並みに再建された。
法善寺を中心にした「法善寺横丁」は苔むした水掛不動がその歴史を感じさせ、小説などの舞台にもなり観光資源として高い。
そのため大阪の「わが町」の路地だったからだろう。
路地4.JPG
横丁から道頓堀筋に抜けるビルの間の1mもない通路(路地とはいえない)が「浮身小路」として整備され、井戸の装飾など「大正ロマンの路地」の趣を漂わせる観光資源になった。

その一方で2014年に焼失した阪急十三駅前の飲食店街「しょんべん横丁」は再建を求める意見があったものの断念された。
建築基準法では再建時には4mに拡幅しなければならず、その特例措置を受けるには借地権者全員の合意と、通常より耐火性の高い建築の義務付けでその費用負担が高くなるため、そのハードルを乗り越えることができなかった。

大阪市は防災力の向上を目指して、優先地区を指定して木造住宅密集地域対策を進めている。
どんな町づくりにも行政と住民とともに進めていくことが欠かせない。
その上で路地が失われても止むを得ない。

「路地」にノスタルジーを感じるのは、かつては遊び場などとして「路地」で暮らしてきたからだろう。
わが町の「路地」はまだ残っているし、また新たな姿になっていく。

参考:
明治安田生命 関西を考える会
http://www.meijiyasuda.co.jp/enjoy/kansai/index.html

奥田邸
http://okudatei.jp/

全国路地のまち連絡協議会
http://jsurp.net/roji/

道頓堀商店会
http://www.dotonbori.or.jp/ukiyo/

大東市の「せせらぎ」をめぐる

大東市の北西部に位置する御領地区は旧深野池堤の西側の標高1.5mほどの低湿地だ。
大和川の付け替えによる新田開拓のために水路が作られ、井路が縦横にめぐる水郷地帯で「水郷の里」と呼ばれた。
稲作やレンコン作り盛んで、昭和40年頃までその農作物や物資の運搬に「三枚板」とよばれる農業用田舟が行き交った。
水路沿いの民家には「段倉」と呼ばれる浸水を防止して物資と保管する高所の収納庫があり、
直接運ぶための船着き場があった。
その名残が今もある。
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平成12年に竣工された区画整備事業で寝屋川から分離されて水源を失った水路は、天水のみとなって生活排水の流入などで汚濁が進んだ。
「大東八景」 の一つに挙げられた風情ある町並みを残したいという地元住民の要望で、寝屋川流域下水道鴻池水みらいセンターの高度処理水を利用した「せせらぎ水路」として復活した。
「御領せせらぎ水路保存会」が日常の清掃や田舟の運行を行っている。
御領みのり公園には約70m、幅約2m、深さ約20cmのせせらぎがある。
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門真市との市境界にオカミ神社(御領神社)が鎮座している。
大東水路3.JPG
南東方向へ走る斜行道を行くと、氷野北野神社が鎮座する。
境内に2つの石橋がある。
昭和50年代に埋め立てられたタツ井路と北井路に架かっていた学校の橋と乾の橋だ。
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その東方の三箇(さんが)地区には尼の川のせせらぎがある。
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寝屋川に架かる会所橋を渡り、鍋田川を上る。
JR学研都市線の東側には南側にへ銭屋川がある。
その川沿いにかつて平野屋会所があった。
現在は宅地開発され、その一角にかつて船着場が復元整備される予定だ。
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「南新田ふれあい・せせらぎの径」には四季折々の花が水辺を彩る。
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大東市では道路、公園、水路等の公共施設の美化および保全のため、市民がボランティアで清掃活動などを行う「アドプト制度」を採用したせせらぎが多い。
その先駆けとなったのが「南新田ふれあい・せせらぎの径」だ。
水質の悪化が著しかった大東第12水路の整備要望に対して住民主体で創意工夫し、愛着を持てる水路にできるよう整備事業された。
平成16年5月未に完成し、市と地域住民の協力体制が組まれた。
年4回の大清掃などの活動は、子供からお年寄りの世代間、新旧住民間の地域住民同士の交流する場となっている。

古民家を守るには?

大東市御領にある辻本家の一般公開に参加した。
辻本家は江戸時代に御領村の庄屋をつとめた旧家だ。
江戸時代後期の天保5(1834)年に建てられた主屋は木造平屋建、鋼板葺(元は茅葺)で、その内部には広い土間と「広敷(ひろしき)」がある。
また表側の正面には上層農家のみに認められた身分の高い客人用の玄関である「式台(しきだい)」(写真)がある。
古民家1.JPG
年に数回、一般公開されているのは主屋の北側部分で、平成24年に建築当初の形式に復元された。
その裏側は現代の生活スタイルに合わせて改修工事された。
平成27年8月には大東市で初めて国登録有形文化財(建造物)に登録された。

平成8年に創設された登録文化財制度は、重要な建造物等を強い規制と手厚い保護を行う従来の指定制度を補完するものとされている。
その登録基準が挙げられている。
1.国土の歴史的景観に寄与しているもの
2.造形の規範になっているもの
3.再現することが容易でないもの

大東市北西部に位置する御領は「水郷の里」と呼ばれる水郷地帯だった。
水路沿いに「段倉」のある屋敷が残り、物資を運搬した田舟の船着き場が残り、その面影を残している。
辻本家は水路沿いにはないものの、その面影の残る歴史的景観に寄与している。

大東市にはかつて銭屋川沿いに「平野屋新田会所」があった。
保存運動があったものの、結局は宅地開発された。
現在、川沿いの一角に船着場などが復元される計画だ。
古民家2.JPG
保存される古民家がある一方で、歴史的な建造物がなくなっていく。
私有制社会からすればやむを得ない。
古民家の維持・改修費は所有者への負担は大きい。
それを補助する仕組みが不可欠だ。

私ごとだが、父の実家(所有者は父の兄)は「平野郷」にあった。
『平成3年度 有形文化財・無形文化財等総合調査報告書』(大阪府教育委員会発行 平成4年)によれば、棟札から文久3(1863)年に建築され、「出格子や平格子がよく保存され、当初の外観形式がほぼ維持されている」と評価された。
幼児の頃にそこに住んでいた祖母を訪ねた時のおぼろげな記憶からその資料を眺めると、土間にコンロがあって外に井戸があったことを思い出す。
古民家3.jpg
古民家4.jpg
そんな町家だったが、結局売却されてなくなった。
町家が失われていく町並みの景観を保全するために、平成11年に「平野郷HOPEゾーン事業」(平成26年に終了)が始まった。
その仕組みは道路に面した建物を町並みに合った新築や改修に費用の一部が補助される。

もしこの制度があれば、売却されずに済んだかはわからない。
所有者(父の兄)の理解も必要だ。
「バブル」期の税負担も大きかっただろうと思う。

歴史的な建造物を守るには、行政からの負担だけでなく免税も必要かもしれない。
それでも困難であれば仕方ない。
その時は資料として残すしかない。

幼児期に祖母がなくなってからは父の実家とは疎遠になった。
今、こうして大和川流域の古民家をめぐっていると、資料として残された父の実家を伝えることが「縁」のように思ってくる。

参考:
文化庁「文化財の紹介」
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/

大阪市役所「大阪市HOPEゾーン事業」
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000110903.html

柏原市立歴史資料館春季企画展『江戸時代の国分村』から

18日、柏原市立歴史資料館で開催されている春季企画展「江戸時代の国分村」に行った。

江戸時代に「河内国安宿(あすかべ)郡国分村」があった。
現在の国分のほか田辺や旭が丘の一部に広がる村だった。
奈良街道などが通り、北に流れる大和川の「国分船(剣先船)」の舟運の交通の要衝地だった。
しかし大和川は東方の芝山を迂回して大きく北へ湾曲しており、芝山の南側の堤防への水当たりが強くて、その南側は古くから洪水被害に見舞われてきた。
水田が水につかりとなかなか水が引かず、その排水不良を改善するために芝山の西に掘削されたのが田輪樋(たのわのひ、たのひ)だ。
国分村1.JPG
樋の長さは123間(224m)で、内法は5尺(150cm)四方だった。
樋の内側は四面とも板張りだった。
樋の入口部分には、水量を調節する戸関が二箇所に設けられてた。
一箇所は南からの悪水(排水)を抜くもので、もう一箇所は田へ水を送る用水の余った水を流すためのものだった。
大和川の樋の出口には逆流するのを防ぐために川の左岸と平行に長さ135間(245m)の堤が築かれた。
その時の樋は昭和25年のジェーン台風で壊れ、その西側に新たに築かれた。
国分村2.JPG
「菱牛(ひしうし)」と呼ばれる水制工が大和川にも使われたことが絵図からわかった。
これは4本の木材をピラミッド状に組んで横方向に木材をつないだもので、これを川の中に置いて流れを緩めたり、流れる方向を変えた。
このような水制工は地域や川の状況に応じて様々な構造や大きさのものが作られた。
国分村3.JPG
参考:
柏原市役所文化財課
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2016032700083/

京都シリーズ②西陣から鴨川へ「名水」をゆく

焼けずの寺のいわれる本隆寺の本堂前に「千代井」がある。
「西陣七名水」の一つだったが、いつしか涸れてしまい、今は埋められて井桁だけだ。
1730(享保15)年の西陣一帯を焼き野原にした「西陣焼け」では、この井水を汲んで火を消し、一面の焼け野原の中で寺の本堂だけが残ったそうだ。
また無外如大尼(千代野姫)が満月の夜にこの井水を汲んでいた時に桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったという由緒が残っている。
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「西陣の聖天さん」として親しまれている弘法大師創建の雨宝院(西陣聖天)の境内に「染殿井(そめどのい)」がある。
軟水は染料を溶かしやすく、染色に適している。
西陣は染物の産地として栄え、「西陣五水」(桜井、安居井(あぐい)、千代井、鹿子井(かのこい))の一つとされている。
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堀川通り沿いの晴明神社に「晴明井」がある。
陰陽師安倍晴明の屋敷跡とされ、その頃から湧出し、悪病悪疾が治る霊水といわれる「洛中の名水」の一つだ。
取水口の上石には五亡星が模られ、立春に神職が回転させて取水口がその年々の恵方を指す仕組になっている。
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蹴鞠の神様である鞠精大明神を祀った白峯神宮に手水舎より湧く「飛鳥井」がある。
神社の創建前には蹴鞠と和歌の宗家であった公家飛鳥井家の屋敷内に湧出していたものだ。
清少納言は『枕草子』で九つの井戸の名水の筆頭格に挙げた。
ボーリング調査で地下35mの水脈にあたり、かつての名水が復活した。
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奥の潜龍社には御神体とされる「潜龍井」がある。
「飛鳥井」から50mほどしか離れていないが、深さが違うと全く違った水脈となり、味も温度も異なる。
この水を飲めば、諸々の悪縁を断ち盗難災難除、病気平癒、事業隆昌に霊験あらたかになるという。

京都御所の南東にある下御霊神社に「御香水」がある。
神社が建つ以前の鎌倉中期には西園寺実氏の常盤井殿の屋敷内に「常盤井」という名水が湧いていたという。
その後、神社の御香水となっていたが、いつしか涸れてしまったという。
1992(平成4)年にボーリング調査して水脈にあたり、50年ぶりに復活した。
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参考:
近畿の水めぐり紀行<嵐山と京の「名水」めぐり>
http://www.geocities.jp/soho_fujiu/travel5.htm

本稿は上記を再構成したものです。


京都シリーズ①西大路から河原町へ「名水」をゆく

JR西大路駅から北へ徒歩約5分、西大路八条に若一(にゃくいち)神社がある。
平安末期に平清盛が50余りの邸を持ち現在の梅小路公園まで及ぶ広大な別邸・西八条邸を建てた際に、その鎮守社として紀州熊野権現十二社の一つ「若一王子」を祀ったのが始まりだ。
その創建以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて御神前に供えられてきた「神供水(じんぐすい)」と「清盛公ゆかりの御神水」がある。
社殿を建立して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて御神前古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、新生児誕生に際しての産湯とされた。
地下水の低下でボーリングして再生され、蛇口から水を汲めるようになっている。
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新幹線高架の南側の八条通に六孫王(ろくそんのう)神社がある。
多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪市羽曳野市)とともに「源氏三神社(げんじさんじんじゃ)」の一つだ。
六孫王神社は清和源氏の武士団を形成した源満仲がその父の源経基(つねもと)を祀る「清和源氏発祥の宮」とされている。
源経碁が清和天皇の第六皇子の子で清和天皇の孫にあたることから「六孫王」と呼ばれた。
その境内の「神龍池」に誕生水弁財天社がある。
満仲が誕生のおり琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請して安産を祈願し産湯に使ったとされる「満仲誕生水」は、古くから京都の名水の一つとされ、木曽義仲の産湯に使われたともいわれている。
「安産の水」として親しまれ、「茶の湯都七名水」の一つとされている。
その北側裏手は新幹線の高架で、初代の井戸は新幹線高架下にあり、現在地に移転され、現在はポンプアップされ、「神龍池」に注いでいる。
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六孫王神社の北側を走る新幹線高架下のJR東海道線沿いに「児水不動明王(ちごすいふどうみょうおう)」の小さな祠がある。
もとは六孫王神社の境内にあったという。
その不動明王の脇から「児の水(ちごのみず)」が湧出し、眼病平癒の霊験があるという。
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JR線の北側の西堀川通小学校の西側に「芹根水(せりね)跡」の石碑がある。
文人墨客や茶道家などにも広く愛用されたことから「茶の湯都七名水」の一つとされた。
大正3年の堀川の改修で濁水が混入したため石碑だけが護岸中に残された。
それも昭和57年の堀川の暗渠工事で現在地に移された。
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少し北へ行った堀川通へ北東に至る道が「堀川」跡だ。
堀川通の西側に並ぶ興正寺から西本願寺の「堀川」は今は空堀になっている。

西本願寺の北へ行った歩道に「左女牛井之跡」の石碑がある。
堀川通の東側が「佐女牛井(さめがい)町」だ。
「左女牛井(醒ヶ井、さめがい)」は古くから梨木(なしのき)神社の「染井(そめのい)」と京都御所の「懸井(あがたい)」とともに「京の三名水」の一つとされている。
平安時代に源氏の六条堀川館にあった井戸と伝えられている。
室町時代にはこの地に住んでいた村田珠光が茶道を興して将軍足利義政に献茶した際に汲まれ、戦国時代には千利休も愛用したことから「茶の湯都七名水」の一つとされた。
これは「芹根水」「 満仲誕生水」」のほか、上京区東裏辻町の「滋野井」、 岩倉の妙満寺の「中川の井」、清水寺の「音羽の滝(延命水)」、市比賣(売)神社 の「天之真名井」とされている。
江戸時代には再生、改修されたものの、戦中の昭和20年の堀川通の拡幅で撤去された。
昭和44年に醒泉小学校100周年記念事業の一つとしてここに石碑が建立された。
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なおかつての「名水」が四条通北側の醒ヶ井通の京菓子司亀屋良長の店頭に復活した。
社屋改築でボーリングして地下80mから汲み上げた地下水を「醒ヶ井」として復活させた。
その水は菓子づくりに使用されている。
京名水6.JPG
「黒染」で有名な染工場(京都市中京区)の店頭に「柳の水」がある。
店の奥にある井戸脇でも水が汲める。
1870(明治3)年の創業時に地下約90mから地下水をくみ上げて以来、一度も枯れたことがなく、染色や飲用に利用されている。
千利休が茶の湯にも使用したそうで、そばに柳の木を植えて井戸に直射日光が当たるのを避けたともいわれている。
この辺りは柳水(りゅうすい)町とよばれ、少し離れた所に本来の「柳の水」があったそうだ。
西洞院通りは明治時代まで「西洞院川」で染物業者が多く集まっていた。
市電の開通で暗渠化された今では、地下水を汲み上げて染め物が行なわれている。
京名水10.JPG
近代的なガラス張りのビルの合間に、聖徳太子が創建した頂法寺(六角堂)がある。
境内の裏手に「聖徳太子沐浴の古跡」の池とお堂があり、「太子の水」が湧出している。
京名水11.JPG
京都の繁華街の河原町・新京極商店街にある錦天満宮の境内に「御神水」がある。
地下30数mから汲み上げられ、水温は年中17~18℃ほどで、検査の結果、無色透明で飲用にも適しているということだ。
豆腐店や漬物店など約130軒の店が連ねる錦市場では、豆腐店や漬物店などは商売に「錦の水」を利用してきた。
かつては各店舗が地下10~15mの井戸を掘っていたが、今では約40mからポンプアップして各店舗に配水しているという。

参考:
若一神社
http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/05/010/

六孫王神社
http://www.rokunomiya.ecnet.jp/

京菓子司亀屋良長
http://kameya-yoshinaga.com/

近畿の水めぐり紀行<嵐山と京の「名水」めぐり>
http://www.geocities.jp/soho_fujiu/travel5.htm

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