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龍谷ミュージアム特別展『水 神秘のかたち』から

龍谷ミュージアムで開催されている特別展『水 神秘のかたち』(~5月29日まで)に行った。

「水」はあらゆる生命の根源だ。
そして国境を越えたあらゆる地域、時の流れの時代を超えた存在だ。
ただその「かたち」は多種多様に顕われた。

本展は6章に分けて構成されていた。
その中で大和川流域に関係する展示品を紹介する。

<第1章 水の力>
跡部遺跡で出土した「流水文銅鐸」(弥生時代BC1~AC1、八尾市歴史民俗資料館所蔵)には流水文が刻まれていることから、弥生時代より「水」への信仰がうかがえるものだ。
水の神秘1.JPG
(八尾市立埋蔵文化財センターで展示されているレプリカ)
「香水杓(こうずいしゃく)」(鎌倉時代寛元5(1247)年、 MIHO MUSEUM 所蔵)は東大寺のお水取りで使われた。

長谷寺の難陀龍王立像(木造像高199cm、重要文化財、南北朝時代14世紀)は唐服を着た老人が頭上に龍を頂いている。
本尊十一面観世音菩薩立像の向かって右の脇侍で、八大龍王、春日明神としても信仰されている。

<第2章 ほとけたちと神々の姿>
「水」は次第に神仏などとして祀られるようになった。

<第3章 水に祈りて>
祈雨(きう)など儀礼の中心的な神仏が「龍神」だった。
日本各地に龍神伝説が残り、龍神にまつわる文物も多い。

法隆寺の善女龍王立像(鎌倉時代13~14世紀)は髭を蓄えた老人が竜を背負って亀の上に立っている。

<第4章 水の理想郷>
古来から人が思い描いた「理想郷」には川や海などの「水」があった。

<第5章 水と吉祥>
生命の源である水は吉祥とされ、その文様の中には、「水」が表現された。

<第6章 水の聖地>
「水の霊地」には社寺が建てられ、その信仰世界が曼荼羅などに描かれた。
また水にまつわる祭礼が行なわれ、その様子が名所図などに描かれた。

四天王寺住吉大社祭礼図屛風(江戸時代17世紀、サントリー美術館所蔵)には、住吉大社で禊する姿や四天王寺で水桶を運ぶ姿が描かれている。

参考:
龍谷ミュージアム
http://museum.ryukoku.ac.jp/

龍谷ミュージアムの堀川通を挟んだ向かい側は「西本願寺(浄土真宗本願寺派)」だ。
空堀に架かる石橋を渡った御影堂門から境内に入る。
重要文化財の手水舎(ちょうずや)は石製の井戸と水盤があり、水口は龍だ。
穢れを払う水への祈りが込められている。
水の神秘2.JPG
参考:
西本願寺
http://www.hongwanji.or.jp/

「旧浅香山浄水場」をゆく

今年も「浅香山つつじまつり」が開催された。
大和川左岸の大和川公園と一体となった浅香山緑道と「旧浅香山浄水場」に赤、白、ピンクの色鮮やかなツツジが咲いていた。

阪神高速大和川線工事に伴って従来の半地下構造の配水池を撤去して新たに高架配水池(容量4500㎥のタンク2基)が平成24年に完成した。
つつじまつり開催期間中、その見学会があった。
浅香山配水池1.JPG
階段で13階相当の配水池の上に着いた。
階段からの渡り廊下と円い配水池とは地続きではなく、わずか2cmほどの隙間から真下が見えて急に怖くなった。
もともと閉所や高所の恐怖症の気があったが、上方から大和川の風景を眺めたくて参加した。
足がすくんで腰をひきながら柵越しに写真撮影した。
浅香山配水池5.JPG
場内の太陽光発電設備は一般家庭約70世帯分の年間使用量に相当する発電能力がある。
これは民間事業者による「屋根貸し」事業で、民間企業が関電に売電し、その施設使用料を堺市上下水道局が受け取る仕組みだ。
百舌鳥古墳群の墳丘が遠望できる。
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工事中の建物は施設の管理棟ではなく、大和川と配水池の間の地下を通る阪神高速道路の排気口だ。

眼下に緑道のツツジ、あべのハルカスが遠望できた。
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半地下構造から高架配水池になったことで、自然流下で区域(南海堺東駅、堺駅にかけての大和川左岸下)へ配水している。
それによって配水ポンプで加圧する使用電力量の削減(平成26年度実績で電気代約870万円)とCO2の排出削減(同約270トン)できるようになった。
また停電やポンプ設備故障しても配水に影響がなく、安定して配水することができる。
階段の前では給水車に給水できるノズルがある。
現在、そのタンク車は熊本地震で活躍中で、その展示は中止になった。

緑道への出入り口前に「堺市水道事業発祥之地」「水道創設時取水口跡」の碑がある。
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浅香山浄水場は明治43年の通水以来大和川から取水し、浄水処理されてきた。
大和川の水質悪化のため、昭和53年に取水停止された。
現在は大阪広域水道企業団(旧大阪府営水道)から全量受水している。
ツツジは昭和12年頃から浄水場の沈殿池の堤防の強化と緑化のために植樹され、「大阪みどり百選」に選定された。

水道施設としては普段は無人で遠隔操作される高架配水池だけとなり、遊休地に広がるツツジはなくなる可能性があるという。
浅香山公園と大和川公園を結ぶ「浅香山緑道」が大和川を望みながらツツジが観賞できる「道」の名所として新たな選定されればいい。

参考:
堺市上下水道局ホームページ
http://water.city.sakai.lg.jp/


長吉六反の「古代市」へゆく

3日、大阪市立クラフトパークで「古代市」が開催された。

クラフトパーク付近の現地表下約7mの縄文時代の地層でカニの巣穴の化石が見つかっていることから、この付近が「河内湾」の海岸線だった。
淀川や旧大和川からの土砂の堆積で海峡が埋め立てられ「河内潟」となり、弥生後期~古墳前期(1800~1600年前)には淡水化した「河内湖」になった。
「河内湖」は奥深く内陸に入り込んで、この付近は瀬戸内海や外洋とつながっていた。
そのことから大阪の中でも早くから大陸との国際交流の場として栄えたことから「古代市」が地域の小中学校や商店街、町会等が協力して開催されている。

午前10時過ぎ、あかる姫と古代船を模しただんじりを引いたパレードが会場に到着した。
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中央環状線の西側にあるなみはや公園に「長原高廻り古墳群」の石碑がある。
長吉・長原地区で4世紀末~6世紀前にかけての古墳が200基以上発見されている。
昭和62年、その一つの5世紀前半の高廻り2号墳(直径約21mの円墳)周濠から現在知られる中では最大の船形埴輪(全長128.5cm、幅 26.5cm、高さ36cm)が出土した。
そのほか家形埴輪など33点の埴輪は国の重要文化財に指定されている。
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(平野区民センター(コミュニティプラザ平野)に展示されている復元品)
埴輪の全体比率から復元された船は全長約15m、幅3m、総20~30トン、乗船人員数十人と想定された。
1989年に大阪市制100周年を記念して「古代船なみはや」として復元され、実際に韓国釜山まで航海された。
大阪天保山から出航して約700kmの航海はもっぱら手漕ぎで35日かかったという。
その復原船「なみはや」は現在、南港にある旧なにわの海の時空館前の広場に展示されている。
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クラフトパークの館内には土器など周辺から出土した生活に関する遺物が時代ごとに展示されている。
館外には「船形埴輪」のモチーフがある。
ただせせらぎなどの親水施設は節電のためか止まったままだ。
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ちなみにクラフトパークの住所は「長吉六反」だ。
1889年の町村制施行で周辺の川辺村、出戸村、長原村、六反村が合併して長吉村が誕生した。
現在、中央環状線を境に東西に分断されているが、今も長吉〇〇という地名に名残がある。
クラフトパークの東方に赤坂神社が鎮座しており、「六反村」は中世の南北朝時代まで「赤坂村」と呼ばれていた。
楠木正成と足利尊氏の戦いの際、楠木正成の本拠地「河内国石川郡赤坂村」(現在の千早赤阪村)と混同されることを恐れて「六反村」に改名したといわれている。
「赤坂」という文字の「赤」から「六」、「坂」から「反」の文字をとったことに由来している。

大和川で「宝石」を探す

大和川・国豊橋下流の近鉄大阪線橋梁下の川原で「宝石」を探した。

『天然石探し』(自然環境研究オフィス著、東方出版、2012年)や『ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑』(柴山元彦著、創元社、2015年)にはガーネット(ザクロ石)の産地として紹介されている。

北側の生駒山地には約1億年前の花こう岩の中に鮮やかな赤色のガーネットを含んでいる。
南側の二上山は約1500万年前の火山活動で噴出した色々な火山岩でできており、その多くや流紋岩、安山岩に赤黒いガーネット(鉄磐ザクロ石)を含んでいる。
これらが生駒山地東麓の竜田川や二上山北麓を流れる竹田川を経て大和川へと運ばれ、比重の違いで高井田付近に堆積し、その大きさはいずれも2ミリほどで密集した状態で見つかることもあるという。
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本で紹介されているように水面をシャベルで掻いてザルで濾しながら探した。
30分ほど続けたが、それらしいものは見つからなかった。
希少性ゆえの「宝石」だ。
見つけるのは簡単ではないようだ。
その代わりに「赤い石」などのきれいなを持ち帰った。
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ガーネットは珪(ケイ)酸塩鉱物(ネソ珪酸塩鉱物)のグループに分類され、成分の違いによって14種ほどの「鉱物」がある。
その中でも多く産出される赤く丸い結晶がザクロの実に似ていることから「ザクロ石」とも呼ばれて「宝石」として知られている。
化学組成により赤や橙、褐、黄、緑、黒など色は多彩だ。
硬度が高くて紙ヤスリに塗られているザラザラした細かい粒などの研磨剤にも利用される。
またガーネットには「ノアの箱舟」の明かりとして吊り下げられたという伝説があり、古代エジプト時代から「お守り」とされてきた。
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(大阪市立自然史博物館で展示されている二上山産出の火山岩)
日本地質学会が都道府県の特徴的に産出・発見された岩石・鉱物・化石を「県の石」として選定した。
大和川流域では唯一、二上山産のガーネット(ザクロ石)が「奈良県の鉱物」に選定された。
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(大阪市立自然史博物館で展示されているガーネット(ザクロ石))
ちなみに「鉱物」と「岩石」とは異なる。
「鉱物」とは、一定の成分(化学組成)と元素の立体的な結びつき(結晶構造)を持っている。
「岩石」とは、一種類以上の鉱物や岩石破片の集合体で化学的に均質ではなく、一定の地質単位をつくっている。

つげ義春の漫画『無能の人』には、川原の石を高く売ろうとして結局売れない「無能の人」が描かれている。
人が「ただの石」の価値を決めている。
古代から石は「磐座」として祀られてきた。
今日でも「パワーストーン」としてアクセサリーになれば「宝石」だ。
その効果はともかくとして、人は重くどっしりとし、光り輝く、そんな不変(ふへん)性に落ち着きを感じるのかもしれない。

しかし太古の地球から生れた「石」が風化や水の浸食で川へ流され、石や砂が堆積して大地となった。
それも普遍(ふへん)なことだ。

石や砂が混じった川原には春の野草が咲いていた。
黄色のセイヨウカラシナが群生している。
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(カワジシャ 茎に4ミリほどの小さな紫の花を付ける)
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(クサフジ 巻きひげとなった小さな葉に赤紫の花を付ける)

参考:
大阪市立自然史博物館「大阪の地学ガイド」
http://www2.mus-nh.city.osaka.jp/learning/G2e.html

日本地質学会
http://www.geosociety.jp/

森ノ宮をゆく

JR森ノ宮駅の西方に森之宮神社が鎮座している。
主祭神は聖徳太子とその両親の用明天皇と穴穂部間人皇后だ。
聖徳太子が蘇我氏と物部氏の争いで四天王に祈願した蘇我氏の勝利で、589年に四天王を祀る寺を建立した。
その後、この寺は荒陵山に移って「四天王寺」となり、この「元の四天王寺」は神社になったという。
598年に新羅より鵲(かささぎ)2羽を献上されて「難波の 杜(森)」で飼育した、と『日本書紀』に記され、「鵲(かささぎ)森宮」とも呼ばれている。
かつては広大な神領を持ち、現在の城東区天王田や大東市住道の御供田の地名はその名残りとされている。
境内の「亀井水碑」は元はJR森ノ宮駅付近にあり、古代には温泉が湧出していたという。
聖徳太子が命名した長寿の霊水で、四天王像と共に四天王寺に移された。
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西方の森ノ宮ピロティホールの地下に展示室がある。
周辺は森の宮遺跡で上町台地の東斜面に位置する縄文時代から近世までの複合遺跡だ。
森ノ宮ピロティホールの建設の際に行われた発掘調査で、縄文人や弥生人たちが食べた貝の殻や、狩猟や漁撈(ぎょろう)道具、土器などが見つかった。
出土する貝殻が海水に生息するマガキから淡水に棲むセタシジミへ移り変わることから、海水の「河内湾、河内潟」から淡水の「河内湖」へと変遷する過程をうかがえるものだ。
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西隣は昨年、日生球場跡地に完成した「もりのみやキューズモールBASE」だ。
屋上にはランニングコースがあり、大阪城を見ながら快走できる。
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西方に「越中井」がある。
周辺は細川家の大坂屋敷跡で、徳川家康と対立した石田三成が家康方の細川忠興の妻・ガラシャを人質に取ろうとした際に、ガラシャは屋敷に放火して自害した。
そしてこの井戸だけが残った。
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玉造稲荷神社は由緒によると、垂仁天皇18(紀元前12)年の創建という。
古代は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉などを作る玉造部がいたとされ、勾玉や土器などの古代資料を展示する難波玉造資料館がある。
豊臣時代には千利休が茶会を催したと伝承され、そのゆかりの「利休井」が平成18年に拝殿前に復活した。
森ノ宮5.JPG
境内に「猫間川川浚碑」がある。
江戸時代は社地が急崖に面していたため、1789(寛政元)年、東横堀川の浚渫で出た土砂を運び込む「砂持」が行われた。
天保9年には、川船が往来して玉造の発展を支えた猫間川の浚せつ工事が行われた。
石碑は角柱で上部に四角い穴(灯火を置くための火袋)があいているのは、夜間の船の往来を守った灯台の名残だ。

境内末社の厳島神社は市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)を祭神とし、古来から陸上航海安全の神とされている。
その周りの池は「白龍池」と呼ばれ、白龍の観音が出現した雨乞いの霊験があると伝承されている。

玉造稲荷神社から南へ約50mほどのところの道路中央部に榎木と「白光大神」と書かれた祠がある。
「白光」とは白蛇のことで、この榎には神の使いの白蛇が棲みついているという。

参考:
鵲森宮(森之宮神社)
http://www.morinomiya.net/

もりのみやキューズモールBASE
http://qs-mall.jp/morinomiya/

玉造稲荷神社
http://www.inari.or.jp/menu.html

大和川の桜を求めて自転車で上る

阪堺大橋右岸堤防下の桜並木。
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遠里小野橋から左岸堤防上を走る。
南海高野線の上流に大和川公園が広がっている。
植樹されて数年しかないため樹勢は小さい。
水辺は「堺大和川水辺の学校」だ。
「つつじまつり」で知られる堺市浅香山配水池(旧浅香山浄水場)付近の桜から阪和線が遠望できる。
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対岸は大阪市大のキャンパスだ。
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西除川合流地を越えて吾彦大橋から右岸へ。
橋の下流部に寺の鐘がある。
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行基大橋の上流の堤防上に矢田公園が広がっている。
ソメイヨシノに交って赤や白色の八重桜が盛りを迎えていた。
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下高野橋と近鉄南大阪線の橋梁の間の堤防上に桜並木。
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阪神高速が通る瓜破大橋の西側の大和川右岸堤防下の公園の桜並木。
近鉄線橋梁から上流の瓜破大橋にかけての右岸堤防下を走っていた貨物線跡が、埋め立てられて緩やかな法面になった。
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明治橋の北西に広がる川辺大和川公園の桜並木。
大和川のスーパー堤防の一環として「馬池」を埋め立てて整備された。
二上山を遠望できる。
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小山の周りに桜があるが、植樹されたばかりで樹勢が小さく花芽も少なったようだ。
堤防上にヘリポートが整備されている。
八尾市役所大正出張所は水防センター機能も兼ねている。

大和川河川事務所手前の住宅地の桜並木。

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発して走ってきた堤防は「後期規格堤防」の整備区間だ。
以前は「スーパー堤防」と呼ばれていたが、民主党政権の見直され、名称を変えて復活した。
石川沿いから大正橋北詰まで自転車道が整備されているが、そこから下流部はまだだ。
瓜破地区を走る堤防道の一部は歩くのも怖いほど狭い。
高規格堤防と合わせて整備すれば効果的だ。

参考:
大和川河川事務所
http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/index.php

大和文華館で「山水」と桜を鑑賞する

近鉄奈良線学園前駅から南へ徒歩約10分のところに大和文華館がある。
29日は「さくらの無料招待デー」として無料開放された。

それに合わせて開催中の展覧会『山水ー理想郷への旅ー』を鑑賞した。
「日本」「中国・朝鮮」「版画」と題された三つのコーナーに展示されていた。

乾いた筆や水気の多い筆使いや画風など多彩だ。
古くから「山水」は「理想郷」とされた。
古代に代々の天皇が吉野川宮滝付近の離宮に行幸したのは、「理想郷」で心の安らぎを求めたからだという。
その「山水」の風景は国や時代とともに変化したものの、人々が自然の中で生きることで安らぎを得て絵画などに描かれてきたことは変わらない。

ただ今回の展示された中で中国・清朝が台湾征討を描いた版画「台湾征討図巻」は、「理想郷」とは正反対の「戦争」を描いていた。
理想と戦争は表と裏の紙一重の違いでしかないのかもしれない。

展示作品は撮影禁止で、著作権があるのでアップロードはできない。
そこで私の父の「山水」の作品を紹介したい。
1970年に奈良県十津川村を流れる瀞峡を描いたものだ。
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大和文華館の玄関前に大きな枝垂桜が満開だった。
エドヒガン系の紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で、福島県の「三春滝桜」は「日本三大桜」の一つとされている。
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庭園には桜のほかアジサイなど四季折々の花が楽しめる。
蛙股池の畔にあり、「あやめ新橋」が望める。
大和文華館3.JPG

ブログ版『大和川水紀行』<菅原天満宮の「筆まつり」からあやめ池へ>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2015-03-21

参考:
大和文華館
http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/

断水!断水!断水だ!

また断水した。
これで三度目だ。
一度目は昨年、自宅の排水路を変更する時に業者が給湯器の蛇口を壊した。
二度目は15日、開発業者が「道路」の地下に残るヒューム管を撤去するために地面を掘り返している際、本管から自宅への送水管を壊した。
そして25日、同じところで壊した。
まさに「三度目の正直」だ。

2~4時間ほどの断水だったとはいえ、突然のことで少しパニックになった。
二度目の時は慌てて姉の自宅に水をもらいに行った。
今回は少し冷静になって近くの公園で給水した。
水道栓から当然のように水が得られる生活に慣れ過ぎていた。
水の大切さを「頭」ではわかっていても「体」では忘れていたようだ。

災害時、一日一人3リットルの水の必要とされ、その備えが求められている。
この機会に四度目があるかもしれない「断水」に備えて災害時に常備しておこう。
断水1.JPG
一度、断水すれば、その後も大変だ。
復旧の際に三か所ほど水道栓を開けておくようにいわれた。
しばらくして「ドドッー」と水道管に入った空気とともに茶色の泥水が出てきた。
透明になってもその日一日、料理に使うのは気が引けた。

ところで以前から我が家の給水メーターに水が張っていた。
一度目の断水の際には、給水栓が完全に閉まらなかったためにそのパッキンの老朽化が原因のようだった。
ところが三度目に断水が復旧した際、給水栓から空気が漏れ出した。
業者がパッキンを交換してくれたが、それには問題はなさそうだった。
しばらくすると送水管と給水メーターをつなぐ引き込み管から水が漏れ出した。
その鉛管(えんかん)が老朽化して穴が開いていたようだ。
設置から40年以上も経っており、老朽化は仕方ない。
鉛管は「酸」に弱いそうで、酸性土壌だったのかもしれない。
断水2.JPG
かつて鉛管は曲げやすくて使わtれていたが、その有害性が確認されて水道管への使用は禁止されて無害なビニール管などに転換されている。
朝一番の水道水は少し垂れ流した方が良いのは知っていたが、まさか我が家で鉛が溶出していたとは・・・。

今、気になっているのが本管からの送水管が私道(私有地)を通っていることだ。
新たな所有者が「使用料」を求めてくるかもしれない。
水道局の話では「問題はない」ということだったが・・・。
私有地をめぐるそのような詐欺・強要する事案があるようなので、それにも備えておこう。

改定版:堺・七道から大和川左岸を下る

南海本線七道駅は大和川左岸(南岸)にあるが、大和川付け替え前には、「七道」の一部は住吉大社の社領だった。
その地名の由来として高渚(たかす)寺の七堂伽藍説のほかに、摂津国住吉郡榎津(朴津)郷の七堂伽藍説、住吉大社の宿院頓宮への渡御祭における七度の潮垢離説などがある。

七道駅の北側から阪神高速道路堺線へ至る道路は土居川を埋め立てられてできた。
その歩道上に「千日井」がある。
奈良時代に行基が民衆の病を治すために掘ったといわれている。
「高渚寺の井戸」と呼ばれ、上水が敷設されるまで利用されていた。
またかつて千日橋の袂にあった水難で亡くなった人の供養碑が移転されている。
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七道駅の東側は内川の濠跡だ。
南へ流れる親水水路として整備されているが、水は流れていない。
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その東側には「海船政所」跡だ。
16世紀に阿波の戦国大名・三好長慶が海の見える堺に館を建設した。
今は石碑だけだが、かつては広大な敷地だったという。
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大和川大橋を通る国道26号線の少し西に月洲神社がある。
住吉大神、生國魂大神、水分大神を祭祀し、末社・水神社もあり、水神とゆかりが深い。
往古にはこの付近は「塩津・清浦」「浅香浦」「七道浜」といわれた海辺だった。
大和川の付け替え以降、洪水の頻発で河口の砂州は流砂の堆積で島になった。
そこで享保13(1728)年に新田開発されたが、難工事だった。
元文2(1737)年にこの三大神を祀ると順調に進んだことから氏神として祀るようになったという。
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阪堺大橋の少し上流の左岸の堤防下に田守神社がある。
約300年前にこの地の氏神として祀られたが、度々水難に見舞われた。
昭和37年に大和川堤防築造拡張工事に伴って遷座された。
そして今、その頃の「鎮守の杜」(写真)は阪神高速道路大和川線の建設用地になった。
境内は南へ遷座され、境内には社殿や鳥居など装いが新たになる一方、色あせた灯篭や堺市の保存樹木第一号の「チシャノキ」が残っている。
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(撮影日2006.6.12)
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阪堺大橋の下流部左岸にある排水口は、堺市三宝下水処理場の処理水を排水している。
阪神高速大和川線の建設に伴う再整備工事中は休止されていた「アジサイ見学」が復活した。
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「三宝」の地名は大和川の付け替えに伴って、宝暦年間に三つの新田ができたことから呼ばれた。
この先、堺浜へと至る。

ブログ版『大和川水紀行』<三宝下水処理場あじさい園から堺浜へゆく>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2015-06-07

参考:
月洲神社
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tukisu/index.html

田守神社
http://www.eonet.ne.jp/~tamorijinjya/index.html

堺市上下水道局
http://water.city.sakai.lg.jp/

イオンモール堺鉄砲町へゆく

19日、南海本線七道駅前に「イオンモール堺鉄砲町」がオープンした。
大和川左岸堤防下にあり、もとはダイセル化学工場の跡地だ。
屋上駐車場から北方に南海本線の橋梁から国道26号線が通る大和川大橋へ流れる大和川が望める。
左岸堤防の間には建設中の阪神高速大和川線が走っており、モールから直接行けないのは残念だ。
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イオンモール、関西電力と堺市が協力して導入・運用される「下水再生水複合利用事業」は、「下水熱」を給湯と空調の両方で利用する全国初の施設として注目され、朝日新聞(3月3日付朝刊)や毎日新聞(3月17日付朝刊)などで報道された。
イオンモール1.JPG
システムはこうだ。
約2キロ西方の堺市三宝下水処理場から出る一日約8000トンの再生水の大半は大和川に放水されていた。
その約1500トンを地下の送水管でモールへ送水する。
下水処理水は夏は25度前後、冬は17〜20度で外気温と5〜10度の差があり、熱交換器を通して水が持つ熱を冷媒に移し、ヒートポンプで湯を作る。
冷えた水は空調の冷却用に利用される。
夏は温度差が小さくなるのが課題だったが、給湯用に熱を取りだして水温を下げてから冷房に使うことで空調と給湯両方に活用できるようになったという。
利用後の水はトイレの洗浄などに使われる。

またモール外で「泉」になってせせらぎが流れている。
水流を活用した水力発電施設は一部の街灯の電力源になっている。
イオンモール4.JPG
噴水のある広場は買い物客の休憩や地域住民の憩いの場になっている。
イオンモール3.JPG
工場跡地の名残がイタリアンレストランとして使われている赤レンガ館と護幸大明神の社殿だ。
1908(明治41)年に三井家の出資で堺セルロイド株式会社が創業された。
後に会社合併で株式会社ダイセルになった。
イオンモール5.JPG

参考:
ブログ版『大和川水紀行』<三宝下水処理場あじさい園から堺浜へゆく>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2015-06-07

イオンモール堺鉄砲町
http://sakaiteppocho-aeonmall.com/

株式会社ダイセル「ダイセルのあゆみ」
http://www.daicel.com/

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