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「遣唐使船」がゆく

26日と27日、平城宮跡内にある平城京歴史館で「阿倍仲麻呂遣唐1300年祭」が行われた。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は717年に第9次遣唐使として唐の長安に留学した。
来年はそれから1300年目を迎える。
阿倍仲麻呂といえば、「百人一首」に選集されている有名な一句がある。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
753年に帰国を決意した際の送別会でこの望郷の和歌を残した。
しかし船が難破して長安に戻ることになって想いは叶わず、770年に長安で亡くなったという。

午後1時からオリジナル劇『阿倍仲麻呂伝「天空の月」』が行われた。
阿倍仲麻呂のほか吉備真備や玄昉、井真成らの遣唐使が登場して、遣唐使としての希望を三笠山を眺めながら語り合った。
遣唐使船1.JPG
「遣唐使」とは日本が唐に派遣した使節のことで、630年に始まってから894年に菅原道真が停止するまで20回遣唐され、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に貢献した。
空海もその一人で、807(大同2)年に唐から帰国してから奈良時代の前期密教に対して大日経をもとにした中期密教をもたらした。

7世紀の遣唐使節団は朝鮮半島を経由して渡唐したが、朝鮮半島との関係が悪化した8世紀には九州から東シナ海を渡って直接唐へ向かった。
そのため難破や漂流の危険も高まり、無事に渡ることができたのは平均6割ほどだったといわれ、まさに神頼みだった。
空海が乗船した船も南へ漂流してかろうじて着岸できた。

その遣唐使船は全長約30m、最大幅約9.6m、排水量300トンで、乗員140~150人のうち水夫が半分で、約13mの帆柱が二本あって無風の時は漕ぐ構造で、順調に行けば一週間ほどの航海だった。

2010年には「平城遷都1300年祭」に合わせて、当時の遣唐使船が復原され、大阪港・天保山から広島・呉、福岡の門司・博多、長崎・五島列島に寄港しながら、中国・上海の上海万博会場へ航海した。
遣唐使船2.JPG
「平城遷都1300年祭」で開館した平城京歴史館は6月30日で閉館となる。
2017年度には平城宮跡歴史公園拠点ゾーンの一部として生まれ変わり、復原遣唐使船は移設・整備される予定だ。

参考:
阿倍仲麻呂遣唐建党1300年祭
http://heijo-kyo.com/nakamaro/

平城宮跡歴史公園拠点ゾーン整備計画
http://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/basic/basic.html
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