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堺の「環濠」をゆく

10日、堺環濠都市遺跡の発掘調査現地説明会に参加した。
現地は大小路沿いにある市立熊野(ゆや)小学校だ。
そこで 中世自治都市「堺」の東端を巡っていた濠の一部が検出された。

幅8.5m、深さ2.2m以上、長さ16mの濠が確認された。
これは平成7年に同小学校で実施された発掘調査で検出された濠の南側に連続するものだ。
この濠は1615年の大坂夏の陣による大火災後に埋め始めて17世紀中には完全に埋没したと見られている。
その際には西側(濠の内側)にあったと想定される土塁で濠を埋めて濠幅を縮小し、その過程で杭を打設し、砂利を入れるなどして板で地面を固めるなどの整地を行っていることが確認された。
堺環濠1.JPG
また濠を埋める過程で生じた窪地をゴミ穴として使っており、煙管(きせる)の一部や陶磁器片、漆器椀(しっきわん)をはじめとする木製品等が出土し、鋳型をはじめ とする鋳造関連の遺物を廃棄していることなどがわかった。
堺環濠3.JPG
堺環濠都市遺跡は堺市中心街の北西部の海寄りに位置し、その範囲は江戸時代の環濠跡である阪神高速道路堺線、内川、土居川に囲まれた南北約3km、東西約 1kmに及ぶ。
中世自治都市「堺」の濠は江戸時代のものよりも一回り小さかったことがこれまでの調査でわかっている。
今回の発掘調査で確認された濠跡の東側には阪高堺線が走っており、濠が東側へ拡大したことがわかる。
堺環濠2.JPG
中世の濠跡には屋敷ができたようだ。
杭跡(発掘現場写真の左奥)はその際に地盤となったという。
「さかい利晶の杜」の観光案内展示室のフロア床には、江戸時代後期の堺を描いた「泉州堺絵図」の陶板マップで確認できる。
堺環濠4.JPG
現在、土・日曜日の昼間に江戸時代の環濠の面影を残す内川と土居川にクルーズ船が走る。
南海堺駅前の「川の駅」を出発して、内川・土居川から堺旧港の大浜灯台をめぐる約50分のクルーズだ。
内川・土居川は高度成長期の1960~70年代にはヘドロの溜まるドブ川だった。
約20年前に始まったカヌーで清掃活動が原点となってクルーズ船が運行された。
この10年で河川環境が改善され、クルーズしながら魚や鳥などと出会える機会が増えているという。
堺環濠5.JPG
参考:
さかい利晶の杜
http://www.sakai-rishonomori.com/

NPO法人 観濠クルーズSakai
http://www.kc-sakai.com/index.html

「第4回生きている地球の記録in 大阪 」へゆく

28日、大阪歴史博物館で地球環境問題映画会「第4回生きている地球の記録 in 大阪 」に参加した。
5つの作品が上映され、午後の部の3作品を鑑賞した。

<上映作品>
『太陽が落ちた日』
( スイス・フィンランド/2015/ドメー ニグ アヤ監督/78分/)

『井戸をめぐる物』
( ドイツ/2014/ユリア・フィンカーナーゲル監督/ 16分)

『新地町の漁師たち』
(日本/2015/山田徹監督・ 製作/92分)
東日本大震災で被災した福島県新地町の漁師たちを2011年6月からの3年半を記録したドキュメンタリー映画で、山田徹監督のデビュー作だ。
地下水汚染対策をめぐる東電の説明会での漁師の切実な訴えが身に迫る。
漁師でありながら漁業できない日常生活で、伝統行事「安波祭」の開催や進水式で新たに漁師として生きようとする若者の姿に将来への希望が見える。
参考:
山田徹
http://www.yamadatoru.com/

『ロンリーレイク』
(イラン/2015/ムハンマド・エヘサーニ監督/46分)
イラン北西部に死海に次いで世界で2番目に大きい塩湖のオルーミーイェ湖(ウルミア湖)が広がっていた。
フラミンゴなどの渡り鳥が数多く飛来し、 水辺でイベント開催など人々の暮らしを支えた豊かな湖が消滅の危機に直面している。
白い塩の結晶が混じった砂が堆砂し、かつての桟橋には船が取り残されている。
その原因は干ばつと過度の開発だ。
周辺での農業用水として地下水の不法な過剰取水。
流れ込む河川上流のダム建設と同時に架橋された長大な橋による生態系の悪化。
豊かな湖を取り戻そうと動き始めている。

『魚道―長良川河口堰運用から20年 』
(日本/2015/吉田修、鎌倉英也監督/43分/NHK製作)
岐阜県が長良川を「世界農業遺産」に登録申請した。
しかしその対象地域から河口堰のある下流域は外された。
1960(昭和35)年の構想から30年以上かかって完成した河口堰が1995年に本格運用されて20年を描いている。
かつては豊富なアユの漁場だったが、漁師は次々廃業していった。
アユは小ぶりになり、漁獲量は最盛期の3割に落ち込んだ。
「河口堰」には魚道が設置されたものの、流れが緩慢になってアユの稚魚は海に下る前に死滅してしまうためだという。
計画から運用までの議論や過程の中で建設反対から賛成に転じた自治体の背景には、「水特法」の制定で様々な予算を組めるようになったことにある。
そのおかげで「木曽三川公園」などが整備された。
その公共事業の構造は今も原発などにも共通していると指摘されている。
「河口堰」の見学に来た小学生に漁師が呼びかけた「帰って来いよ」の声が身に迫った。
参考:
NHK名古屋放送局「金とく」
http://www.nhk.or.jp/nagoya/kintoku/archives/2015/20150612/
長良川河口堰.jpg
(1997年撮影)
長良川河口堰は「川」に関心を寄せるようになった原点だ。
1995年に運用開始をめぐる議論に注目し、1995年と1997年に訪れた。
それからわが町の大和川に関心を寄せるようになった。

柏原市立歴史資料館夏季企画展『まじなう』へゆく

27日、柏原市立歴史資料館で平成28年度夏季企画展『まじなう』の開催に合わせて講演会があった。

演題「土器に描かれた顔」
講師は森川実氏(奈良文化財研究所)

墨書人面土器は古代の河川跡や道路側溝(運河)跡から出土することが多く、まじないの道具とされている。
その「顔」は「男面」の中でも「ひげ面」があったりと様々だ。
険しい顔面から「鬼神」や「疫病神」とする説もある。
平安時代になると、土師器皿に描かれることが多くなって祓いの習俗は急速に廃れていった。
参考:
奈良文化財研究所
https://www.nabunken.go.jp/

演題「奈良時代の祈りとマツリ」
講師は榎村寛之(斎宮歴史博物館)

参考:
斎宮歴史博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/

<平成28年度夏季企画展『まじなう』>
古代から人は不安や恐れを解消するために、特別な道具を使って祈る「まじない」が行われてきた。
その道具は時代を経るごとに大きく変化した。
主に柏原市で発掘された遺物を中心に展示され、「まじない」が紹介されていた。

縄文時代の土偶や石棒は子孫繁栄のまじないの道具とされている。
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弥生時代の銅鐸は豊作祈願など農耕に関連するまじないの道具とされている。
その様式は「聞く」ものから大型化して装飾された「見る」ものへ変化した。
本郷遺跡で見つかった文様のない「小銅鐸」は古墳時代にも使われていたことから別の用途があったと考えられている。

平野遺跡から大阪府で今のところ唯一の弥生土器の一種「円窓付土器」が出土している。
円い穴に花を飾るなどまじないの道具と考えられているが、まだ謎が多い。
愛知県の尾張地域で多く出土しており、地域間交流を行っていたことがうかがえる。
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縄文時代から見られたミニチュア土器はまじないの道具とも子供のおもちゃともいわれている。
7世紀後半に導入された「律令制」で木製人形(ひとがた)、墨画人面土器、土馬などが都を中心に各地に広まった。
それらとともにミニチュア土器が出土することが多く、まじないの道具になったと考えられている。
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鳥坂寺(とさかでら)跡で見つかった井戸から出土した墨書人面土器や斎串(いぐし)などの木製品などはまじないの道具とされている。

古墳時代から見られた土馬は「律令制」で生きた馬に代わるまじないの道具とされ、木製の馬形(うまがた)や絵馬へと変わっていった。
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大阪市平野区の長原遺跡と加美遺跡から30点以上の墨書人面土器が出土している。
加美遺跡では南北800mにわたって延びる最大14m幅の大溝から墨書人面土器のほかに絵馬、人形、舟形などの祭祀具や牛馬骨が出土している。
「人面」の描かれ方には違いがあり、それぞれの地域で自由であったことがうかがえる。
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JR高井田駅から南へ出た大和川北岸(右岸)堤防上に宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ、白坂神社)が鎮座している。
諸病を祓い風水の難を除く「病祓いの術」は、紙の「ひとがた」に名前を記してまじなう。
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人が「まじなう」のは道具は変わっても、その「こころ」は今も変わらない。
参考:
柏原市立歴史資料館
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082600070/?doc_id=3699

『大和を掘る』で掘った「平城京」の井戸

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で『2015年度発掘調査速報展 大和を掘る34』が9月4日まで開催されている。
それに合わせて20日、土曜講座が開催された。

(1)演題「平城京における土地利用の一例ー平城京左京三条二坊十四坪」
講師は山田隆文氏(橿原考古学研究所)

「平城京左京三条二坊十四坪」の発掘調査地は近鉄新大宮駅の南西方の奈良警察署跡地だ。
同地では弥生時代の田んぼ遺構が検出され、今年6月に現地発掘調査報告会があった。
今回の報告は2015年度にその上層の発掘調査され、奈良時代後半の遺構が確認された。
掘立柱建物は43棟、井戸は19基、土坑などが今のところ確認されている。

横板を平面六角形に組んだ井戸が検出された。
平城京内では左京三条一坊一坪につづく2例目だ。
今回の調査では最大だった井戸は横板を平面四角形に組んだ一辺1.2mの井戸枠であった。
その内部からは多数の土器とともに軒丸瓦、曲物などの木製品、斎串などの木製祭祀具などが出土した。
井戸から一括出土数としては過去最多の29枚の和同開珎が出土した。
大和を掘る1.JPG
佐保川の氾濫による洪水砂や洪水によると考えられる整地土を挟んで、上下2時期の奈良時代の遺構面が確認され、重複関係があったため少なくとも5時期以上の土地利用の変遷があったとされている。

調査区の北西部にあるイトーヨーカ堂には奈良時代には長屋王邸があった。
調査区の遺構時期はそれ以降の奈良時代後半とされた。
柵が25条以上確認されているが、十四坪を細かい宅地に分割したではなく、一坪全体を占めた宅地の中を区画していたと推定されている。
その中で複数あった井戸を共有していたと考えられる。

昭和44年にできた奈良警察署の前は田んぼだった。
調査区の東部は江戸時代からあった農業用ため池があった。
平城京から長岡、平安遷都されるとともに、それらの宅地は次第に田んぼになった。
貴族から農民に住民が変わるとともに、土地の利用や井戸の使い方も変わった。

参考:
奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/

(2)演題「天平の創建と鎌倉の復興ー東大寺東塔院」
講師は南部裕樹氏(東大寺)

「東塔」は鏡池の東側に位置し、『東大寺要録』などの古文書から奈良時代に創建されて鎌倉時代にお ける復興を経て南北朝時代に焼失したとされている。
『東大寺要録』に「七重宝塔一基」と記されていることからから七重塔で、興福寺の五重塔よりも巨大だったと復原されている。

昨年7 月から行われている東塔院跡の発掘調査で、約27m四方で高さ1.7m以上の鎌倉時代の基壇が確認され、奈良時代の基壇の上と周囲に盛り土を加えることによってひと回り大きくしていた。
大和を掘る3.JPG
参考:
東大寺東塔院跡
www.todaiji.or.jp/images/pdf/toutouinnato.pdf

(3)演題「平城京右京一条三坊四坪の宅地利用と井戸」
講師は鐘方正樹氏(奈良市教育委員会)

「平城京右京一条三坊四坪」という調査地は大和西大寺駅の南方で、西大寺の旧境内地にあたる。
西大寺は平城京の北西隅に位置し、764(天平宝宇8)年に孝謙上皇の発願によって造営が開始た平城京最後の官の大寺で、その広さは31町にも及んだ。
これまでにも発掘調査されてきており、2015年度の35次調査では奈良~室町時代の掘立柱建物、井戸、溝などが見つかり、奈良~室町時代の各時代に掘られた井戸が見つかり、その中から多数の土器が出土した。

奈良時代の井戸は最下段の井戸枠に転用された「扉板」が出土した。
井戸枠に転用するために扉板の上下に切り欠きを入れて、他の板と組み合うように加工されていた。
また扉板下の片隅には扉を開閉するための軸が残存していた。
大和を掘る2.JPG
底に集水するために曲物を使った奈良時代の井戸も見つかった。

また井戸枠を抜き取った後に中空の四角柱を差し込んで「息抜き」して埋められた井戸もあった。
これは井戸は地下の冥界と地上の現世をつなぐ空間とされ、「鬼」(後に井神とされる)の祟りを避けるための儀礼だった。
これは中国思想の影響で奈良時代に平城京で始まったと見られ、現代でも塩ビ管を差し込んで砂で井戸を埋める風習として残っている。

藤原京以降、宅地の東南側に井戸が作られることが多かった。
これも古代中国の『周易』の影響と指摘されている。

平安時代以降の井戸は井戸枠が抜き取られ、瓦が多量に出土した。
平安前半の井戸からは西大寺で用いられた軒丸瓦が見つかった。

参考:
奈良市埋蔵文化財調査センター
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1454477569976/index.html

「奈良大文字送り火」と奈良公園の水

終戦記念日の15日、奈良で大文字送り火が営まれた。
送り火(おくりび)とはお盆に迎えた死者の霊を再びあの世へと送り出すことだ。
「京都五山送り火」は一説では平安初期に弘法大師が創始したという伝統行事だ。
奈良のそれは奈良県内の戦没者慰霊と世界平和を祈る火の祭典として昭和35年に始まり、奈良の夏の風物詩として定着している。

高円山(たかまどやま)に灯される「大」文字を望む奈良公園の飛火野で、日も暮れた午後6時50分から慰霊祭が始まった。
奈良県出身の戦没者29243柱の霊気が僧侶から神官へと手渡されて祭壇に迎えられた。
春日大社の神官による神式の祭儀に続いて、市内30か寺から集まったという僧侶による仏式の法要が執行された。
これは宗教、宗派を問わず平和を祈ろう、との趣旨からだ。
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僧侶の読経と戦没者遺族の焼香が終わり、午後8時にかがり火への点火を合図に高円山の「大」に点火され、30分ほど灯った。
宇宙を意味するとされる「大」文字は人間の煩悩と同じ108の火床から形作られ、その大きさは第一画目が109m、第二画目が164m、第三画目が128mある。
奈良公園では飛火野や浮見堂のある鷺池から望めた。
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高円山の西麓には古都奈良の写真を多く残した入江泰吉の全作品を収蔵・保存した奈良市写真美術館がある。
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高円山と御蓋山(春日山)の山麓からは能登川が流れ出ている。
奈良公園の南方を流れながら、同じく高円山の南麓からの岩井川を経て佐保川に合流している。
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春日大社の神山の御蓋山(春日山)からは菩提川(ぼだいがわ)が流れている。
春日大社摂社・紀伊神社付近から奈良公園の南縁(写真)を流れ出て、鷺池や荒池に注ぎ、猿沢池の南岸の率川(いざがわ)へと流れていく。
春日大社本殿から興福寺を経て猿沢池に注ぐ御手洗川(みたらしがわ)は率川へと流れ落ちて佐保川に合流していく。
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御蓋山(春日山)の北側に連なる三笠山(若草山)との間からは吉城川(よしきがわ)が流れ出ている。
その源流域一帯は春日山原始林で「水谷川(みずやがわ)」とも称されており、水谷神社の裏手にに流れ出る。
朱塗りの欄干の脇に茅葺の茶屋から奈良公園の奈良県新公会堂や、東大寺南大門前、依水園や吉城園の池へと流れる。
東大寺の鏡池の前の大仏殿を西流する白蛇川や東大寺戒壇院付近で大仏池の流出水を合わせながら佐保川に合流する。
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こうして奈良公園を流れる1mもない細い川の流れを概観すると、水系が東大寺と春日大社の領域を分けているようだ。

現在、東大寺の鏡池に木造船が浮かんでいる。
これは中国の現代美術家・蔡國強氏による「船をつくるプロジェクト」で建造された。
船は文化など交流した大陸とを繋ぐ象徴とされている。
そして東大寺は国際的に開かれていた奈良時代の象徴的な存在だ。
東大寺の鏡池を「海」として東シナ海を航行した東アジア伝統の木製の帆船が浮かぶ姿は、東アジアの人々が同船して未来に向けたものとして表現されている。
現在の領土や歴史認識など東アジアが抱える諸問題解決を模索していく東アジア文化都市事業として実施されており、『古都祝奈良(ことほぐなら)』(9月3日~10月23日開催)の終了まで展示されている。
奈良大文字7.JPG

参考:
奈良市写真美術館
http://irietaikichi.jp/

AGUA 
http://agua.jpn.org/index.html

東アジア文化都市2016奈良市
http://culturecity-nara.com/event_info/sai/

柴籬神社の「歯神社祭」へゆく

8日夜、近鉄河内松原駅から南東へ徒歩約10分のところに鎮座する柴籬神社で「歯神社祭」が催された。
「歯(は)」にちなんで八月八日八時八分から神事が斎行されている。
日暮れとともに境内に並ぶ400の献灯が灯された。
かき氷の授与があり、歯がしみれば治療が必要と自己診断できそうだ。
神事は「歯(は)」にちなんで八月八日八時八分から斎行された。
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柴籬神社は18代の反正天皇の「丹比柴籬宮」跡と伝承されている。
反正天皇が「瑞歯別尊」と呼ばれた美しい歯並びであったという伝承から「歯の神様」とされ、歯神社(はがみしゃ、住吉神社)の前には「歯磨き面」があり、それにさわると歯痛にならないとされて信仰されている。
歯神社祭1.JPG
江戸時代、阿保村の海泉池から三宅村の大海池に至る用水の取水掛口に堰樋があり、反正天皇の「丹比柴籬宮」の中門があったという伝承から「中門」と呼ばれた。
そこから西へ200mに架けられた橋は、愛児が母親の乳房を歯でかみきったという伝承から「ちちかみはし」と呼ばれた。
その真ん中の街道に鎮座していた住吉神社は室町時代に創建され、明治初年に柴籬神社に合祀された。
その祭神の住吉大神とともに亡くなった母親や乳をかみきった愛児を歯神として同社に合祀したため住吉神社は歯神社とも呼ばれるようになった。 

参考:
柴籬神社
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpacl201/

「大和川七夕祭り」へゆく

30日、JR王寺駅から北へ明治橋を渡ると三郷町だ。
その三郷中央公園で「第13回大和川七夕まつり」が開催された。
昭和30年頃のウナギなどが生息する美しい川をよみがえらせる思いを次世代に引き継ごうと開催されてきた。

明治橋から信貴山に連なる山峰に夕日が沈んでいった。
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公園内に並ぶ約20の模擬店の中で「大和川水族館」があった。
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三郷町にある龍田大社では8月15日に開催される「風鈴まつり」(14時~18時)に奉納される短冊を書くコーナーがあった。

午後8時半から大和川河川敷で約30発の花火が打ち上げられた。
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その後笹飾りを燃やして願いを天に届ける「七夕笹竹大とんど」があった。
安全のため消防車が放水していた。
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ちなみに今年は三郷町の町制施行から50年になる。
三郷町の人口は昭和 55 年時点で約18000人で、以降増加傾向を示して平成7 年時点で24000人を超えたのをピークに下落傾向に転じて現在は約23000人台を維持している。
『国立社会保障・人口問題研究所』による将来の 人口推計結果では、「平成52 年時点では昭和 55 年時点の人口より減少する」と予想されている。

参考:
龍田大社
http://www.tatsutataisha.jp/index.php

三郷町役場
http://www.town.sango.nara.jp/

生根神社の「だいがく祭り」にゆく

地下鉄玉出駅から北西方に鎮座する生根神社で、毎年7月24、25日に「だいがく祭り」が行われる。

夕暮れから境内にある「だいがく(台額、台楽)」がだいがく音頭に合わせて若者らが交代で大太鼓を打ちながら勇壮に回り始めた。
「ヨイサジャー」という音頭でだいがくが上下に大きく揺すられると鈴が鳴り響いた。
生根神社1.JPG
「だいがく」というのは高さ20mの柱に79個の提灯をつけた山笠だ。
台上の心棒の上端には神楽鈴のついた「だし」と鈴のついた傘がある。
それをだいがく音頭に合わせて大太鼓を打ちながら心棒を回転させる。

その昔、農民らの雨乞い祈願が成就して喜び合ったのが祭りの始まりとされている。
以来、五穀豊穣や無病息災、家内安全などを祈願して勇壮に行われてきた。

かつては生根神社などの大阪市南部周辺の神社にも「だいがく」があった。
それらが戦災で焼失して唯一残った生根神社の1基が1972年に大阪府の有形文化財に指定された。

熱中症を防ぐ!

19日、大阪産業創造館で開催された講演会『エコライフセミナー2016』に参加した。

<講演内容>
「おおさかの暑さを探る」
講師:気象庁大阪管区気象台 地球温暖化情報官 楠田雅紀氏

約120年前から現在までの平均気温が世界で0.71℃、日本で1.16℃、大阪で1.95℃の割合で上昇した。
大阪で高いのは地球温暖化と都市のヒートアイランド化だ。
今世紀末までには猛暑日の年間日数が近畿地方各府県で約15日程度増加する。
参考:
大阪管区気象台「大阪府の気候変動」
http://www.jma-net.go.jp/osaka/kikou/ondanka/ondanka-osaka1.html

「熱中症の発生状況と初期対応」
講師:大阪府立中河内救急救命センター 池側恭洋氏

スポーツ中の19才以下と日常生活で60才以上の高齢者に熱中症を発症例が多い。
また屋外の日陰よりも屋内の方が発症例が多く、重症化する。
発症した際は、頸や腋などに氷嚢を当てて水よりも経口補水液やスポーツドリンクなどの塩分を含んだものを摂取する。
日陰などで風通しの良いところで頸や腋などに氷嚢を当てて体温を下げる。
重症患者は救急依頼する。
参考:
環境省「熱中症予防情報サイト」
http://www.wbgt.env.go.jp/

「エアコンの上手な使い方」
講師:ダイキン工業株式会社空調営業本部 長澤恭子氏

ポイントは
・温度調節はスイッチのON、OFFではなくエアコンの温度調節機能に任せる。
その方が節電になる。

・室外機は日陰に設置するか、日除けで直射日光を防ぎ、吹き出し口をふさがない。
熱中症2.JPG
・太陽の熱を室内に入れないよう遮る。
カーテンやブラインドの色は白い方が効果的。
ツルのある植物で作った緑のカーテンは葉の気孔から水が蒸発するときに気化熱をうばって涼しくしてくれる。
参考:
ダイキン工業「エアコン節電情報」
http://www.daikin.co.jp/setsuden/

「熱中症対策に求められる飲料の機能性」
講師:大塚製薬株式会社学術担当 佐伯輝彦氏

熱中症予防の水分補給として0.1~0.2%の食塩と糖質を含んだ飲料が良い。
冷えたイオン飲料や経口補水液の利用が手軽だが、自分で作るには1リットルの水に食塩2グラムと砂糖を入れる。
糖を入れるは腸管での水分吸収を促進するためで腸管内でナトリウムが同時にあると速やかに吸収される。
「ポカリスエット」に含まれるクエン酸は疲れを軽減させる効果がある。
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参考:
大塚製薬「熱中症からカラダを守ろう」
http://www.otsuka.co.jp/health_illness/heatdisorder/

大阪市立自然史博物館特別展『氷河時代』へゆく

大阪市立自然史博物館ネイチャーホールで開催されている特別展『氷河時代』(開催中~2016.10.16)に行った。

約46億年という地球の歴史の中で、気候は大きく変動してきた。
恐竜が暮らしていた1億年前は今よりとても温暖な時代だった。
その一方で地球上のほとんどが氷におおわれた寒冷な時代もあった。
その気候変動のメカニズムと過去の歴史が恐竜やマンモス、ナウマンゾウ、巨大なシカの一種の「ヤベオオツノジカ」などの動物化石などの展示されていた。
大和川右岸上に広がる山之内遺跡では7~11万年前の地層からナウマンゾウの足跡が見つかっている。
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大阪平野で掘削された活断層調査のボーリングコアで気候変動の証拠が展示されていた。

約12万年前の温暖な時期には「上町海」が広がっており、その貝化石が展示されていた。
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最終氷期最盛期が終わった18000年前に始まる海水面の上昇とともに淀川と大和川からの土砂が堆積して形成された「大阪平野」の成り立ちの歴史とその地下に眠る「縄文の海」の貝化石が展示されていた。
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屋外の長居植物園には氷期植物群のメタセコイアが育成されている。

参考:
大阪市立自然史博物館
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/

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