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改訂版:萱振寺内町と楠根川

八尾市には久宝寺のほか八尾、萱振の寺内町がある。
萱振は八尾市中心部から北へ行く旧河内街道沿いにあり、天文年間に恵光寺を中心とした形成された環濠集落だ。
伝統的な町並みはないが、車一台が通れるほどの細い道が入り組んだ町割の中を幅2~3mのコンクリート護岸の水路がめぐっている。
案内板などがないのでわかりにくいが、石垣のカーブを描いた水路にその面影を見い出せる。
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恵光寺に「アミダ石佛の庭」がある。
波紋やさざ波を表した枯山水の庭園は味わい深い。
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恵光寺南西はかつて「シロンド」(城土居)と呼ばれており、その辺りに萱振城があったと考えられている。
古代には「小阪合分流路」が流れていた。
弥生後期(1世紀末)に「東郷分水路」が洪水で廃絶して、その東側に形成された。
現在は集落の西方に楠根川が流れている。

楠根川は八尾市南東部の八尾木付近から八尾市内を北上し、市境を越えた東大阪市若江南町で第二寝屋川に合流している。
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(源流地)
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(合流地、写真右が楠根川)
大和川の付け替え後の楠根川は長瀬川とともに大阪城の北辺で大川に注いでいた。
昭和43年に第二寝屋川が開削されて現在の姿になった。
楠根川跡は「楠根川緑地」として東大阪市や八尾市に残っている。
八尾市では断続的に5か所整備されており、地下水や水道水を利用した水路が町に潤いをもたらしている。
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「新喜多新田」を歩く

JR河内永和駅の東方に鴨高田神社がある。
境内の北東隅に金網で囲まれた池の中に水分神(ミクマリ)を祀る末社・水神社がある。

長瀬川の西方に「渡し地蔵」(高井田元町)がある。
江戸時代初期に造られた石仏が堂内に安置されている。
大和川の付け替え前には川幅が200mもあり、舟の渡し場があったことからそう呼ばれたという。
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通称「産業道路」を渡った暗越奈良街道沿いに「高井田地蔵(清水地蔵)」がある。

その東方には「西岸地蔵」がある。
長瀬川の西岸にある事からそう呼ばれた。
それ以前は「新喜多地蔵尊」と呼ばれていたが、昭和55年の地蔵堂改修の際に建築材に「西岸地蔵」の墨書が発見され、かつてそう呼ばれていた事がわかったそうだ。

暗越奈良街道沿いの長瀬川に「新喜多橋」が架かっている。
その親柱は現在、新喜多中学校に移設されている。
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この辺りの地名「新喜多」は大和川の付け替えに伴って新田開発されたもので、その開発者である鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の名前の頭文字を一字ずつとって命名された。
近鉄奈良線の北側からJR放出駅まで長瀬川沿いに細長く延びている。

長瀬川沿いには新喜多公園(森河内西2)がある。

放出駅の南側で長瀬川は第二寝屋川に合流している。
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難読地名の一つの「放出(はなてん)」は、かつて「はなちでん」「はなちで」といわれていた。
古代にあった「河内湖」からの水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置しており、旧大和川の氾濫が多かったことからこの地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、そう呼ばれたという。
中世の戦記物に記される「放出の渡し」がこの辺りにあったという。

放出から西の京橋駅東側にかけての第二寝屋川の北岸(右岸)にも「新喜多」の地名が残っている。
寝屋川の南岸(左岸)は楠根川跡、北岸(右岸)は鯰江川跡だ。

寝屋川に架かる新喜多橋付近の右岸にはかつて巡航船の船着き場があった。
江戸時代には寝屋川は大坂と北河内・中河内をつなぐ交通の要路で、今福はその中継地として栄えた。
大正3年からに昭和7年まで天満橋、片町、鴫野橋、朝日橋、今福を結ぶ巡航船が運航され、通勤・通学の重要な交通手段となった。
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新喜多橋の南詰から南東に延びる道沿いに「新喜多新田会所跡」(新喜多東1)の石碑がある。
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新喜多橋南詰から南東には「楠根川跡緑陰歩道」が延びている。
楠根川跡を親水水路として整備されたが、水は流れていなかった。
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現在、楠根川は八尾市南東部を源にし、東大阪市との市境付近で第二寝屋川に合流している。
かつては旧大和川の玉串川(八尾市)から分岐し、長瀬川とも合流して新喜多橋付近で寝屋川へ注いでいた。
昭和43年に第二寝屋川が開削され、放出・天王田・新喜多東間の楠根川跡は、道路や公園(天王田楠根公園など)になった。
放出から東方の東大阪市内にもその川跡は断続的に「楠根川緑地」(写真左)として川俣や御厨付近に残っている。
ただ水路などの水辺はない。
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第二寝屋川・川俣大橋の東には『河内名所図会(1801年作)』に記されている川俣神社(川俣本町)がある。
『日本書紀』には大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、後の仁徳天皇)が詠んだ歌の中に「堰杙(ゐぐひ)築く 川俣江の」とあり、この辺りにあったと考えられている。
またこの北方にあった「大江御厨」という大きな池とかつての恩智川、玉串川、長瀬川などとつながり、河内の玄関口として交通の要衝地だったという。
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東大阪市のツツジと大阪の水道

東大阪市上下水道局上小阪配水場で行われているツツジの一般公開に行った。
配水池の周囲約330mの堤に樹齢50年の色とりどりのヒラドツツジ約1500株が咲いていた。
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東大阪市では上小阪配水場のほか3か所の配水場と山間地域の配水池から配水している。
その全配水量の99%は大阪広域水道企業団や大阪市から受水している。
残りの1%は生駒山西麓の石切地区の2か所の浄水場でその湧水を浄水している。
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現在、大阪市水道局と大阪広域水道企業団との統合が懸案となっている。
大阪市議会で3分の2の賛成が必要とされているが、成立の見込みが立っていない。

大阪市を除く府内各市町村は自己水源で足りない分を企業団(以前は府営水道)から購入している。
そのため各市町村の事情で水道料金が異なっている。
読売新聞(2012.1.3付朝刊)の調査によると、一般家庭用一か月分20㎥で比較した場合の水道料金は大阪市は2016円、東大阪市は2480円だ。
総じて自己水源が少なく、山間地や遠距離の市町村が高くなっている。
また大阪市水道局と企業団は同じ淀川を水源にしているが、配水などの設備コストの違いから水道料金(配水料金)が異なる。
大阪市の橋下市長が目指すところは、「府域一水道」による効率化で労働や施設コストを削減して水道料金を安くすることだ。
全府民で同一料金となれば、不公平感もなくなる。
企業団が各市町村の水道部門を企業団に統合する方針を示したが、その時期は明記しなかった。
大阪市の水道事業だけが統合されれば、大阪市民の水道料金が高くなる可能性が高く、各市町村間の格差も残ることになる。
大阪市を含めて各市町村がそれに抵抗するのは、身内の公務員のリストラが伴うためだ。

それはともかくとして私が危惧するのは、市町村が維持してきた自己水源のリストラだ。
阪神・淡路大震災でライフラインの断絶が問題となった。
「規模の経済」のもとで水源を淀川に依存していくのは、その危機管理からして危険だ。
「府域一水道」には賛成だが、水源の一元化には反対だ。

参考:
東大阪市 平成23年度水道事業統計年報
http://www.city.higashiosaka.lg.jp/cmsfiles/contents/0000010/10187/nenpou5.pdf

大阪広域水道企業団
http://www.wsa-osaka.jp/

造幣局の桜の通り抜けから桜宮へ

毎年恒例の造幣局の「桜の通り抜け」が4月16日から始まった。
大川沿いのソメイヨシノの開花は平年よりも早かったが、造幣局の桜もそうだった。
今年の花になった「天の川」は早くも色あせていた。
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通り抜けの途中に「めがね橋」があった。
かつて旧淀川(大川)の船着き場になっていた入り江に架かっていたという。
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造幣局北門から国道1号線を渡ると泉布観と旧桜宮公会堂がある。
ともに造幣寮(造幣局)の洋風建築物で、大阪市に移管され、国の重要文化財に指定された。
現在、日本庭園のある「旧桜宮公会堂」は結婚式場として民間活用されている。
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昭和5年に架けられた桜宮橋は当時、長さ約190mの国内最大のアーチ橋で、全体が銀白色に塗装されていたことから「銀橋」と呼ばれて親しまれた。
現在は西向きの旧橋(写真左)と東向きの新橋(写真右)の二つのアーチ橋となっている。
新橋の歩道が広いのは天神祭の花火見物の混雑防止ためだという。
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桜宮橋を渡って少し下流の造幣局の対岸に「水防碑」がある。
度々水害に見舞われ、堤防をわざとこわす「わざと切り」までした都島区の水防意識を啓発している。

日本庭園のある藤田邸跡公園に隣接して池がある。
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桜宮橋の少し上流の堤に桜宮神社がある。
由緒によれば、もともとは野田村(現在の東野田町)の旧大和川の堤、字桜の馬場にあった。
元和6(1620)年に社殿が洪水で流され、漂着した中野村に改めて祀られたが、そこも低地で再び水禍に遭い宝暦6(1756)年に現在地に遷座されたという。
それ以降、境内や旧淀川左岸に桜が植えられて花見客で賑わう名所になった。
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かつて鳥居前にあった「青湾」の石碑が公園にある。
その裏には「この湾の水 甘香にして茶に適す 汲みて尽きず青霞を吸うにまさる」と記されている。
この付近に水が渦巻く小さな湾があり、豊臣秀吉は「青湾」と名づけてその水を茶の湯に愛用したという。
1895(明治28)年に上水道ができるまで、水屋がこの付近で淀川の水を汲んで大阪市中の飲料水とした。
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2011年にできた「大阪ふれあいの水辺」は、水都大阪の新たな水辺の魅力づくりのために貯木場跡が砂浜の広がる水辺になった。
水質の浄化施設も整備されているが泳ぐことはできない。
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昭和11年に源八橋が架橋されるまでは「源八渡し」があった。
元禄時代以前から存在しており、都島出身の俳人・与謝蕪村が「源八をわたりて梅の主かな」と詠んだことでも知られていた。
この下流には大学の艇庫があり、春に行われるレガッタレースの練習する光景が見られる。
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都島橋の少し下流の左岸に「大阪水道発祥の地」の碑がある。
コレラの流行で良好な飲料水の提供と消防力強化のために上水道の設置が急務となり、明治28年に大阪市ではじめて水源地として完成したのがこの桜宮水源地だ。
人口増加で明治34年に拡張されたが、大正3年の柴島浄水場の完成に伴い大正9年に廃止された。
今は石碑と大川からの取水施設の一部のレンガ造りの桝が残っている。
跡地は都島本通沿いの総合医療センターや「桜宮リバーシティー」の高層マンションになった。
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参考:
都島区役所
http://www.city.osaka.lg.jp/miyakojima/

我が郷土シリーズ⑦杭全神社の「御田植神事」

毎年4月13日に杭全神社で「御田植神事」が行われている。
600年以上の歴史があり、府の無形民俗文化財に指定されている。
都市化で田畑はなくなり、神事も存続の危機に陥ったが、「御田植神事保存会」が結成されて継承された。
これまで4月13日の昼間に行われてきたが、大正時代までは1月13日の夜間に行われていた。
江戸時代には子の刻(午後11時から12時過ぎ)に行われていたという。
そこで昨年の杭全神社創建1150年祭では午後7時から行われた。
今年もそれに続いて午後7時から行われた。
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「田」に見立てられた拝殿に「観客」が座ると、能面の「翁」や「牛」が登場した。
田ならしや水口つくり、籾種まきなどの農耕所作をし、その合間に「観客」の掛け声が入る。
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(撮影日:2011.4.13)
「翁」が「次郎坊」に食事を与えて、糞尿する所作を行った。
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「次郎坊」を背負った男と「早乙女」が登場して、松葉の「苗」の田植の所作をして神事が終わった。

豊作を祈願して行われる御田植祭には、実際に田植を行う神事と農作業の所作を行う神事とがある。
大阪では前者の住吉大社、後者の杭全神社が知られている。
杭全神社では猿楽の形で演者(仕手)と観客(地方)と掛け合いしながら進んでいく。
特長的なことは人形に食事させ糞尿させる所作があることだ。
厳かな神事に中にあってユーモラスな所作は辛い農作業の中の少しの安息を表現しているようだ。
そして食事して糞尿を出す人間の生理現象と自然の循環を表現することで五穀豊穣を祈願しているのかもしれない。

平安初期に征夷大将軍坂上田村磨の子の広野麿が杭全荘を領地として賜ってこの地に居を構え、その子の当道が862(貞観4)年に氏神として素盞嗚尊を勧請して祇園社を創建したのが杭全神社の始まりだ。
「祇園社」「熊野権現社」と呼ばれていたが、明治時代に社号を杭全神社と定められた。
参道の東側の高まりに「平野環濠跡」の石碑がある。
かつて平野郷囲んでいた環濠の名残で、循環式の水路として復元された水辺にはコイが泳ぎ豊かな植生がある。
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数年前には宇賀神社が鎮座する弁天池の畔に「神田」ができた。
神事に使われた籾もここで出来たたものだ。
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(撮影日:2012.7.11)
参考:
杭全神社
http://www.kumata.jp/

「河内大橋」を訪ねる

柏原市立歴史資料館で開催されている春季企画展「河内大橋」に行った。
その存在は『万葉集』にある高橋虫麻呂の詠んだ「河内の大橋を独り行く娘子(おとめ)を見る歌」が唯一伝えるだけだ。
朱塗りの復元模型が展示されているが、構造などの実像はわかっていない。
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「大和川か石川の藤井寺市の辺りに架かっていた橋」というだけで推定地には諸説ある。
今回の展示では近鉄柏原南口駅と新大和橋の間ぐらいにあったと推定されている。
ちょうど堤下には築留三番樋がある。
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二番樋(写真左)との合流地から朱塗りの「河内大橋」が望めたに違いない。
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旧大和川の右岸は竜田道と後の東高野街道が交わる要衝地であった。
大和川の左岸沿いには難波へ至る渋河道が走り、「河内大橋」がそれを結んだ。
また旧大和川右岸の山裾には今は無き「河内六大寺」が点在していたことが発掘調査で確認されており、出土した礎石は高井田横穴古墳公園に展示さている。
当時、橋は「彼岸への道」という仏教信仰があって盛んに造られたという。
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奈良時代には聖武天皇の難波への行幸道や信仰の道として重要視されたが、平安遷都以降はそれらがなくなって増水などで流出しても再建されなかったのだろう。
江戸時代には東高野街道が整備されたが、橋ではなく渡しで越えていた。
大和川の付け替えで新大和川に架けられたのは紀州街道が通る大和橋だけだった。
明治時代以降、次々と橋が架けられた。
その始まりが明治7年に完成した新大和橋だった。
現在の新大和橋は1974(昭和49)年に竣工されたもので、歩行者自転車専用橋となっている。
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自動車が通行できるのは一つ下流の「河内橋」だ。
北詰には大和川河川事務所がある。
「河内大橋」との由縁はないが、自動車社会にあって役所と「河内」の市民をつなぐ「大橋」だ。
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参考:
柏原市立歴史資料館
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/bunkazai/shiryoukan/
shiryoukan.html

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