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「河内大橋」を訪ねる

柏原市立歴史資料館で開催されている春季企画展「河内大橋」に行った。
その存在は『万葉集』にある高橋虫麻呂の詠んだ「河内の大橋を独り行く娘子(おとめ)を見る歌」が唯一伝えるだけだ。
朱塗りの復元模型が展示されているが、構造などの実像はわかっていない。
河内大橋1.JPG
「大和川か石川の藤井寺市の辺りに架かっていた橋」というだけで推定地には諸説ある。
今回の展示では近鉄柏原南口駅と新大和橋の間ぐらいにあったと推定されている。
ちょうど堤下には築留三番樋がある。
河内大橋4.JPG
二番樋(写真左)との合流地から朱塗りの「河内大橋」が望めたに違いない。
河内大橋3.JPG
旧大和川の右岸は竜田道と後の東高野街道が交わる要衝地であった。
大和川の左岸沿いには難波へ至る渋河道が走り、「河内大橋」がそれを結んだ。
また旧大和川右岸の山裾には今は無き「河内六大寺」が点在していたことが発掘調査で確認されており、出土した礎石は高井田横穴古墳公園に展示さている。
当時、橋は「彼岸への道」という仏教信仰があって盛んに造られたという。
河内大橋2.JPG
奈良時代には聖武天皇の難波への行幸道や信仰の道として重要視されたが、平安遷都以降はそれらがなくなって増水などで流出しても再建されなかったのだろう。
江戸時代には東高野街道が整備されたが、橋ではなく渡しで越えていた。
大和川の付け替えで新大和川に架けられたのは紀州街道が通る大和橋だけだった。
明治時代以降、次々と橋が架けられた。
その始まりが明治7年に完成した新大和橋だった。
現在の新大和橋は1974(昭和49)年に竣工されたもので、歩行者自転車専用橋となっている。
河内大橋5.JPG
自動車が通行できるのは一つ下流の「河内橋」だ。
北詰には大和川河川事務所がある。
「河内大橋」との由縁はないが、自動車社会にあって役所と「河内」の市民をつなぐ「大橋」だ。
河内大橋6.JPG
参考:
柏原市立歴史資料館
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/bunkazai/shiryoukan/
shiryoukan.html
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