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大水川を下る

大水(おおずい)川は藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川だ。
応神天皇陵の西側を流れる水路とR170(大阪外環状線)下からの暗渠溝が合流して大水川となる。
現在、古市駅の南方で東流して石川に合流している大乗川の大和川付け替え前の流路にあたる。
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右岸には応神天皇陵の墳丘を眺めることができる。
西名阪自動車道の北側の右岸から古室山古墳の後円部の墳丘を望める。
5世紀初期の築造で、墳丘長約150m、高さ約15.3mの前方後円墳で、周濠と堤をめぐらしていた。
西側の濠の一部が流路になっているのかもしれない。
この付近には古市から土師の里へ至る「誉田断層」が通っており、その国府台地の西側に位置する墳丘上からの眺望は随一だ。
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近鉄南大阪線の北側の「巡礼街道新橋」から下流の両岸の堤防上には四季折々の花が咲く「大水川散策公園」が続く。
「彩花堤苑(さいかていえん)」にはバラ園がある。
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大阪外環状線より下流は「翠花堤苑(すいかていえん)」と名を変える。
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右岸にある大井水みらいセンターの「大井ふれあいらんど」は府民の憩いの場になっている。
水処理施設の屋上や園内の南側に高度処理水を利用したせせらぎがある。
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落堀川の合流付近にある公園に「大和川付替え三百年記念」の石碑と桜が植樹されている。
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参考:
大井水みらいセンター
http://www.pref.osaka.jp/nambugesui/sisetu/ooi.html


古寺シリーズ① 大安寺

毎年6月23日に大安寺で竹供養(癌封じ夏祭り)が行われている。
竹は古くから防腐作用があるとしてその皮や葉で包む餅やちまきなどの食文化を今日に伝えた。
その竹の徳を偲んで法要が行われている。
午後1時から本堂で、次いで境内の竹林に設けられた祭壇で供養法要が行われた。
また竹の植樹が行われた。
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境内では薬効があるといわれる笹酒(ドライバーや子どもには笹水)が授与された。
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水鉢に可愛らしいだるまの人形があった。
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大安寺は真言宗の仏教寺院だ。
奈良時代には南都六宗の一つの三論宗寺院で、東大寺、興福寺と並ぶ南都七大寺の一つだった。
藤原京時代にはその前身となる「大官大寺」が天香久山の南方の明日香村大字小山にあった。
現在、南方に東西の二つの塔の土壇跡と「史蹟 大安寺塔趾」の石碑があり、かつての8万坪を有する広大な寺域を偲ばせている。
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その北東部にある八幡神社も大安寺の寺域に属していた。
平安時代に大安寺の行教和尚が大安寺の鎮守社として宇佐八幡宮を勧請した。
その後、京都の「石清水八幡宮」を創建したことから「元石清水八幡宮」と称された。
その時にお供えする閼伽井の水(石清水)を得るために行教和尚が獨鈷で掘らせると清湛な水が湧き出たという。
そのゆかりの井戸が大安寺の北東方の御霊神社にある。
井戸の守神として高オカミ命や善女龍王命の水神が祭祀されたという。
現在は御霊神社として農業神や商いの神が祀られている。
石橋を渡った小社の奥の芝池の北堤の下に「神池」と「石清水(閼伽井)」がある。
残念ながら往時の姿を留めたものではないという。
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参考:
大安寺
http://www.daianji.or.jp/



津堂城山古墳の「花しょうぶ園」

津堂城山古墳の東側周濠にある「花しょうぶ園」を訪ねた。
例年梅雨入りとともに見頃を迎えるが、今年は梅雨入りこそ平年よりも早かったものの、その後の「梅雨の中休み」が続いたためか大半は萎れていた。
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ハナショウブはアヤメ科アヤメ属の多年草のノハナショウブの園芸種で、江戸・伊勢・肥後の三系統がある。
一般的にショウブというと、ハナショウブを指すことが多い。
ちなみに5月5日の端午の節句に菖蒲湯などに使われる「ショウブ」はショウブ科(古くはサトイモ科)に分類される別種の植物だ。
また「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句がある。
ハナショウブ、アヤメ、カキツバタのどれも優劣は付け難いという意味だが、それほど見分けが難しいという意味だ。
その見分け方の一つの外花被片の模様が、
ハナショウブは網目模様がなく、黄色い斑紋がある。
アヤメは網目模様がある。
カキツバタは網目模様がなく、白い斑紋がある。

「花しょうぶ園」のほかに、スイレンの咲く水辺やコスモスなどの「草花園」もある。

後円部の北側には津堂八幡神社が鎮座している。
もとは現在の藤井寺高校付近にあったが、織田信長の河内攻めで焼失して遷されたという。
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津堂城山古墳は古市古墳群の一つで4世紀後半ごろに築造された前方後円墳だ。
墳丘長208m、高さ16.9mで、二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)があった。
内濠跡の周りに水路がめぐっている。
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外濠は宅地や田畑となってその痕跡はほとんどないが、上空写真では住宅の地割でその存在をうかがえる。
墳丘は室町時代に「小山城」の築造で改変され、大和川の付け替えで堤に搬出されたといわれている。
現在の「花しょうぶ園」の一角の濠の中から一辺17mの方形の葺石された島状遺構(方墳形の祭壇)が確認され、大小1mほどの水鳥形埴輪3体と衝立型や家形・盾形・衣蓋形、靫型の埴輪、円筒型など多彩な形象埴輪が出土している。
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枚岡神社の「葦船奉納神事」

枚岡神社で「葦舟完成奉告祭並びに天津神・国津神大和合祈願祭」が行われた。
拝殿へ上る階段下で長さ約5m、幅1.5mの葦舟が奉納された。
葦舟は葦(ヨシ)などを束ねて編まれ、古代から世界各地で使用されていた。
『古事記』には「蛭子神(ヒルコ)」が葦舟で流されたと記されている。
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今年は伊勢神宮と出雲大社の「式年遷宮」の年だ。
天津(あまつ)神を代表する天照大神を祀る伊勢神宮は20年一度、国津(くにつ)神を代表する大国主大神を祀る出雲大社は60年に一度で5月10日に「本殿遷座祭」が無事執行された。
枚岡神社は「河内国の一之宮」と呼ばれる古社で、本殿の向きに合わせると伊勢と出雲と直線状につながる位置にある。
そこで「NPO法人アカルプロジェクト」が中心となって伊勢神宮や出雲大社周辺で刈り取られた葦で造られた。
奉納された葦舟は16日に出雲の日御碕で、23日に伊勢の外宮の勾玉池で浮かべて奉納神事が行われる。

枚岡神社は皇紀以前に現在、天児屋根命・比売御神を祀る本宮が鎮座する神津嶽に創建されたという。
650年に山麓の現在地に遷座された。
拝殿への階段下にある手水舎の水口は青銅製の神鹿だ。
春日大社との由縁があって「元春日(もとかすが)」と呼ばれている。
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拝殿の山裾に4つの本殿が並び、「照沢池(てるさわのいけ)」がある。
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絶えず谷水が湧出しており、その水は階段右手奥の「禊場」へと流れ、心身を清める御滝水となっている。
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拝殿の右手にある摂社若宮社の左奥に「出雲井」がある。
覆屋の中に大小2基の円形井戸枠に木製の蓋が被せられている。
古くより神聖な水が湧き続けているという。
枚岡神社が鎮座する地名「出雲井町」の由来になったという。
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梅林へ至る参道奥にある天津神・国津神を祀る末社・天神地祇社(てんしんちぎしゃ)の周りに「白井水」や楠正行(まさつら)縁の井戸がある。
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拝殿の左手を通るハイキングコース沿いに「姥(うば)が池」があり、2年前に整備された。
生活に困った老婆が枚岡神社の神燈の油を盗って売っていたが、その噂が広まってこの池に身投げした。
その後、雨の晩になると、ほとりに青い炎が現れたという。
この伝説は井原西鶴の戯曲にも登場している。
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大和川の「水辺教室」

行基大橋の足元で子供らの水辺教室が開催されていた。
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地引網、投網、釣りの体験や生物観察などが行われていた。
ハゼやエビが投網に掛って歓声が上がっていた。
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平成23年度に実施された大阪市内を流れる河川19か所での魚類調査で、大和川では21種類の魚類が確認された。
今回の事前調査ではアユ2匹が確認されたという。

久宝寺駅から太子堂へ

JR久宝寺駅南出口前に「久宝寺遺跡の碑」がある。
久宝寺遺跡は東西約1.6km、南北約1.7kmに広がる縄文後期~近世にかけての複合遺跡だ。
旧大和川(長瀬川)と平野川に挟まれた扇状地低地にある。
近畿自動車建設に伴う発掘調査で「準構造船」が見つかっており、「河内湖」の港があったことをうかがわせている。
南口のロータリーの自転車駐輪場にSL(C57)の動輪が展示されている。
かつて関西本線で同型機が急行「大和号」を牽引していた。
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この付近には関西本線(大和路線)の上りと下りのホームの間に竜華(りゅうげ)操車場があった。
昭和61年に廃止された後、下りホームを北側に寄せて、その跡地が再開発された。
公園、病院、高層マンションなどができ、その歩道沿いに「せせらぎ」がある。
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これらの水は西側に建設された「竜華水みらいセンター」の高度処理水が活用されている。
処理施設は地下にあり、その上部はスーパーなどの民間施設がある。
今春、その道路沿いにも「せせらぎ緑道」が完成した。
環境用水のほかに公園の散水用水として活用されている。
楠根川、長瀬川、平野川、大正川に放流されて、河川の維持・浄化用水となっている。
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ジョーシン久宝寺店の南側を走る道路沿いに「流水紋銅鐸出土地」(春日町1)の石碑がある。
レプリカが八尾市立埋蔵文化財センターに展示されている。
一帯は跡部遺跡で、弥生中期頃と見られる高さ46.6cmの銅鐸の埋納壙と埋納施設が出土した。
銅鐸は弥生時代に祭祀に用いられたと考えられる青銅器だ。
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南へ行くと国道25号線沿いに大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)がある。
門前の道路沿いに「守屋池」がある。
聖徳太子が迹見赤檮に鏑矢で物部守屋を射させ、秦河勝がその首を洗ったとの伝承がある。
付近は飛鳥時代に物部氏と蘇我氏が仏教をめぐって争った古戦場だ。
聖徳太子は戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって勝利してこの寺を建立したといわれ、「下の太子」と呼ばれている。
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「八尾」の地名の由来には、
・古代には弓や矢を生産する部族が多く集まり、出来た矢を背負って運ぶことが多かったことから「矢負い」となり、「矢尾」(八尾)に転じた
・旧大和川がこの地を流れていて、洪水を防ぐ堤を作るために「八百」(たくさんの意)の杭を打ったことから転じた
などの説がある。

参考:
大阪府庁「下水道」
http://www.pref.osaka.jp/life/list2.php?ctg02_id=63

八尾市立埋蔵文化財センター
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/zyao_maibun/center/

八尾市役所「八尾を知る」
http://www.city.yao.osaka.jp/category/2-0-0-0-0.html

三郷駅から明神山に登る

JR三郷駅の南側を大和川が流れている。
神所橋の少し上流で葛下川(写真右手)が大和川に合流している。
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国道25号線沿いのバス停「追分」付近から南側の高台へと登っていく。
新興住宅地を進んでいくと、その一角に畠田公園がある。
宅地開発から取り残されたかのような雑木林が丘陵地に残っている。
菩提キャンプ場の横にある菩提小池には湿地や池がある。
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住宅地の中には「カンゴ下池」などのため池が残っている。
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道路沿いの大きな鳥居が明神山・水神社への参道になっている。
頂上まで舗装道路が続いている。
古来から明神山の伏流水が農業用水などになっていたことから、山頂に「西山の明神さん」といわれる水神社が祀られている。
祠の中に小さな祠が安置されており、風雨から守っているようだ。
かつては伊勢参りへの峠道で「太神宮」が鎮座していた。
その社や灯籠は麓の火幡神社に移されたという。
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標高273.7mで大阪平野や奈良盆地が一望できる。
晴れた日には明石海峡大橋を見ることができるそうだ。
周辺は「明神山自然の森」だ。
そこから大阪・柏原方面へ至る山道(鉄塔の管理用?)があるが、赤い目印以外道標はなく、滑りやすい悪路もあった。
その山道は「亀乃瀬弁才天国分寺」付近に出てくる。
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赤い欄干が印象的な大和川・弁天橋を渡るとJR河内堅上駅だ。

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