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八尾空港から大和川へ平野川を上る

八尾空港(自衛隊八尾駐屯地)から平野川を上っていく。
しばらくはコンクリート護岸が続く。
平野川11.JPG
R25を渡ると旧奈良街道とほぼ並行して流れている。
街道沿いには登録有形文化財の寺田家住宅や、国の重要文化財に指定されている三田家住宅がある。
三田家住宅は1766(明和3)年に建築された当時の面影を残している。
その裏には平野川が流れ、柏原舟の船着き場だった。
平野川12.JPG
その少し上流に柏原舟の舟たまり場跡の児童公園がある。
洪水で疲弊した柏原村を復興するために1636(寛永13)年に総数40艘で運航が始まった。
大和川の付け替え後も運航されたが、1889(明治22)年に柏原と湊町を結ぶ鉄道の開通で衰退し、1907(明治40)年にその役目を終えた。
平野川13.JPG
JR柏原駅南口付近では再開発に合わせて護岸整備が進んだが、その上流はまだ民家の背後を流れている。
川面には草が繁茂しているが、少し濁っている。
R25の下から流れ出た青地樋がある。
平野川14.JPG
その取水口は柏原堰堤の少し上流にある。
堰堤には魚道が整備され、復活したアユの遡上が可能になった。
築留3.JPG
その上流の新大和橋の付近にあるのが築留三番樋だ。
さらにその上流に築留二番樋がある。
明治21年頃に作られた二番目の樋門で、長さ55m、幅2mのレンガ造の馬蹄形をした単アーチ構造だ。
2001年に国の登録有形文化財になった。
築留1.JPG
「築留(つきどめ)」の樋は大和川の水を農業用水路の長瀬川、玉串川に取水するために設けられたものだ。
田畑は少なくなってしまったものの今でも農業用水となり、地域の貴重な水辺となっている。
もともと大和川はここから北流していたが、1704(宝永元)年に直接、大阪湾に注ぐよう西へ付け替えられた。
大和川の堤防上にある大和川付け替え記念公園にその記念碑や功労者の中甚兵衛像がある。
築留2.JPG




大和川駅から加賀屋新田会所跡へ

阪堺線大和川駅を降りるとそこは大和川の堤防だ。
大和川駅1.JPG
堤防下では阪神高速大和川線の工事中だ。
いずれ駅も含めてこのあたりの景観は変わることだろう。
川ではユリカモメが群舞していた。
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その下流の大和橋は紀州街道筋で、大和川の付け替えの際に唯一架けられた公儀橋だ。
橋上で毎年、8月1日に住吉祭りでの神輿受渡式が行われている。
大和川の付け替え300周年を記念して、川の渡御が復活した。(2011年の様子)
大和橋.JPG
(撮影日2011.8.1)
阪神高速堺線高架の真下に「十三間川樋門記念碑」がある。
大和川の浄化水を導水した「十三間(堀)川」のせせらぎが北へ流れていく。
十三間堀川1.JPG
少し下流の堤防下に高砂神社(北島3)がある。
元文2(1737)年に北島新田の開墾の際に加賀屋甚兵衛が創建した。
出身地の喜志村(現在の富田林市)の産土神の天水分大神を勧請したという。
「水占い」ができる。
加賀屋新田1.JPG
その西方にある高崎神社(南加賀屋4)も宝暦5(1755)年に加賀屋甚兵衛が産土神の天水分大神を勧請して創建した。
鳥居前の古風な民家の前に井戸がある。
加賀屋新田3.JPG
少し北の加賀屋緑地に加賀屋新田会所跡がある。
延享2(1745)年に加賀屋甚兵衛がこの周辺の新田開発を始めた。
北へと拡大したその総面積は今日の大阪市域のほぼ3分の1になるそうだ。
その拠点とあった「会所」で、小作人からの年貢米の徴収と貯蔵、新田の堤防や水路などの維持管理業務などを行った。
宝暦4(1754)年に建造された建物が一部現存しており、平成13年には大阪市有形文化財・史跡に指定された。
加賀屋新田5.JPG
小堀遠州流の築山林泉式庭園には「心字池」があり、茶室「鳳鳴亭」から望める。
かつて池の水は屋敷の外に流れており、十三間川を経て道頓堀川とつながっており、舟で芝居見物に出かけたという。
木橋にある樋門がその名残を残している。
加賀屋新田4.JPG


細江川から住吉川へ

長居公園通りの少し南側を「細江川(細井川)」が流れている。
古代には「住吉津(墨江津)」の入り江に注ぎ、『万葉集』などにも詠まれた。
かつてはJR長居駅に西側にあった「大門池(長居池)」を水源とし、神須牟地神社の環濠とつながっていた。
細江川4.JPG
現在は南住吉2丁の住宅街から千躰交差点まで人工のせせらぎとして復活した。
細江川2.JPG
交差点から北西には開渠で雨水などのコンクリート三面張りの排水溝と化す。
細江川3.JPG
住吉大社や住吉公園の南縁を流れ、一つ橋には住吉大社の境外に末社・浅沢社がある。
「弁天さん」ともいわれ、市杵島姫命 (いちきしまひめのかみ) を祀っている。
かつて名所とされたカキツバタが復元されている。
細江川1.JPG
住吉大社の西の鳥居付近には大きな灯籠が並んでいる。
境内に約600基ほどあり、船舶の関係者や問屋など全国の業者から海上安全を祈願して奉納された。
優雅で大きなものが多く、当時では「広告塔」としての意味合いもあったという。
住吉大社5.JPG
R26号に至る住吉公園内を東西に走る石畳の「汐掛道」にも灯籠が並んでいる。
その多くは住友家が奉納したもので「住友灯籠」と呼ばれている。
「汐掛道」はかつて住吉大社の神事行う馬場で、「出見(「いでみ)の浜」へ至る参道だった。
公園には「花と水の広場」や「心字池」がある。
人工の池だがサギなどが佇み、市民の憩いの場だ。
住吉公園1.JPG
R26沿いに住吉高燈籠(たかどうろう)がある。
江戸時代中頃に「出見の浜」に底辺12m四方の石垣の上に高さ21mの木造の常夜灯が築造され、神前への灯明とともに灯台としての役目を担った。
もとは現在地から西へ約200mのところにあり、現在はその顕彰碑がある。
台風で倒壊したり、道路工事で撤去されるなどして現在地に移築された。
高灯籠.JPG
阪神高速堺線高架下の町角に「剣先船の碑」(浜口西1)がある。
剣先船は江戸時代の大阪の川船の一つで、大坂と亀の瀬などと結ぶ荷物運搬船として活躍した。
宝暦2(1752)年には300隻ほどが運航していたという。
剣先船.JPG
阪神高速下で「十三間川」のせせらぎが細江川に合流し、住吉川に合流して大阪湾に注いでいく。
住吉川.JPG
十三間(堀)川は元禄11(1698)年に河村瑞賢が、木津川と住吉浜を結ぶ北から南へ流れる水路として開削された。
宝永元(1704)年の大和川付け替えで大和川まで延長された結果、流れ込む土砂の堆積で川床が上がり、流れが南から北に変わった。
昭和45(1970)年に阪神高速堺線が完成して以降、住吉川から以北は埋め立てられ、残った以南は人工のせせらぎとして復元された。

参考:「いこいこ!おおさかの公園 住吉公園」
http://www.toshi-kouen.jp/staticpages/index.php/sumiyoshi_top


住吉大社の「ウォータースポット」

毎年1月12日に住吉大社の摂社・若宮八幡宮で「湯立神事 (ゆたてしんじ) 」が行なわれている。
五穀の豊作を占うとともに豊穣を祈願している。
午前11時から社殿前に並べられた4つの大釜の前で、巫女が笛と太鼓の神楽に合わせて舞う。
各釜を塩で清め、米や酒を入れ、その湯を木桶に入れて神前に供えられた。
煮えた釜湯を笹で撒きあげると辺りは湯気で沸き立った。
住吉大社1.JPG
その社殿の横に「五所御前」がある。
垣内の玉砂利の中から「五」「大」「力」の書かれた小石を集めてお守りにすれば、体・智・財・福・寿の五つの力が授かるという「パワースポット」だ。

最近、「パワースポット」がブームで、住吉大社もその一つとして本や雑誌で紹介されている。
海の神である住吉三神を祀っており、古来から海上安全祈願などで全国から信仰を集めている。
地元では「すみよしさん」と親しまれ、毎年初詣での参拝者は全国有数だ。
約10万㎡(約3万坪)の境内に摂社、末社、祠が数多く鎮座している。
住吉大社のHPでは摂社四社、末社二五社、祠八社が紹介されているが、それ以上あるのではなかろうか。
「パワースポット」の住吉大社の「ウォータースポット」を訪ねた。

御本殿には四つの社がすべて西側に向けて鎮座している。
かつて西方には大阪湾が広がっており、海の神ならではの配置だ。
その内に元旦に「若水の儀」が行われている「神井」がある。
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住吉大社の象徴として有名なのが反橋(太鼓橋) だ。
橋を渡るのは神に近づくために罪や穢 れを祓 い清めるためだ。
反っているのは、地上と天上の神の国をつなぐ掛け橋として虹にたとえられているという。
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(撮影日2011.8.1)
橋の袂にある手水舎の水口は卯(ウサギ)の形をしている。
創建された日が卯月の卯の日だったことにちなんでいる。
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御本殿の北方に大海(だいかい)神社がある。
社前にある「玉の井」には海神より授かった潮満珠 (しおみつたま) を沈めたところだと伝えられている。
手押しポンプで井戸水を汲み上げる井戸に改修整備された。
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御本殿の南方に船玉神を祀る船玉神社がある。
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反橋の池の南東に龍社がある。
竜宮と呼ばれる海宮の伝説がある。
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石舞台のある池の南東角奥に水浪女神(みずはのめのかみ)を祀る御滝社がある。
「住吉禊の瀧」があるが、水の流れはない。
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若宮八幡宮の東側には海龍社や水や雨を司る神を祀る貴船神社がある。

参考:住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/


花園から吉田へ旧吉田川跡を歩く

近鉄花園駅の北方にある花園郵便局の道路を挟んで向かい側に「東用水水利組合」の記念碑がある。
かつて川幅が約150mもあったという旧大和川の一つの玉串川が、ここで北東に吉田川、北西に菱江川に分岐していた。
花園2.JPG
現在、玉串川は八尾市二俣で長瀬川と分かれた後、北流して第二寝屋川に注いでいる。
農繁期になると用水の一部がさらに北方へ流れているが暗渠化されてわかりにくい。

セブンイレブン角の右側の細い道を歩いていると高低差を実感できる。
近鉄花園ラグビー場へと続く細い道は堤防跡で周囲より少し高い。
村を水害から守ったといわれる小社や普明寺の前に井戸跡がある。
花園3.JPG
花園4.JPG
高校ラグビーのメッカの近鉄花園ラグビー場は旧吉田川跡だ。
その東側に広がる花園中央公園は池や野球場などがあり、一帯が花園多目的遊水地として恩智川の増水での一時貯留機能をもっている。
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(撮影日2010.5.9)
R308の南方にある大津神社は古水走集落に鎮座する古社だ。
付近はその社名から「河内湖」の港津として要衝地であったそうだ。
花園5.JPG
R308の北方の今米公園に中甚兵衛の大和川の付け替えの功績を称えた顕彰碑がある。
その北側には大阪みどりの百選に指定されている「川中家の屋敷林」が広がっている。
花園7.JPG
これまで川中家が中甚兵衛の生家と伝えられていたが、平成17年にその約50m北方に「中家屋敷跡」の碑が設けられた。
それには「屋敷は東西二十五間、南北三十間あり、石垣で囲まれていました」とあり、道路より50㎝ほど高い敷地がそれを偲ばせている。
花園6.JPG
旧吉田川は「河内湖」の名残の深野池や新開池に注いでいた。
大和川の付け替えでその川跡は新田開発された。
この辺りは「川中」という地名だが、以前は花園ラグビー場から北へ大東市境まで約3kmの細長い川跡の名残がそのまま地名に残っていた。

吉田駅の西側に南北に細長く伸びる「緩衝緑地公園」がある。
川跡のように思えたが、そうではなかった。
公害を防止・緩和して地域の生活環境の改善を図ることを目的に整備されたもので、最北部の加納北公園に親水の水辺がある。
花園8.JPG




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