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「平野屋新田会所」をゆく

大東市立歴史民俗資料館で開催中(~2017.1.15(日)まで)の市制施行60周年記念特別展『よみがえる平野屋新田会所』を観覧した。

旧大和川の川筋では度々川が氾濫したため1704年に大和川の付け替えが行われた。
これに伴い旧川筋や「新開池」「深野池」で新田開発された。
その一角の深野南新田(現在の谷川、深野南、平野屋、南新田)は東本願寺難波別院が開発し、1719年の再検地時には平野屋又右衛門の所有となった。
文献ではその新田の管理・運営した「平野屋新田会所」は18世紀前半の新田開発の当初段階には既に存在していたと推定されている。
その後、所有者が変遷して1823年に銭屋(高松)長左衛門になってからは解体される平成20年まで続いた。
その屋敷には井戸と覆屋のある井戸や米蔵、道具蔵、土蔵へと運ぶ船着場があった。
また屋敷の東には庭園が広がり、池には築山や濠があった。

本展ではその歴史を伝える絵図や文書、民具などが展示されていた。
「水」にまつわる民具として水田に導水する「踏車」(水車)、消防ポンプの「龍吐水」、庭園に設置されていた「灯篭」が展示されていた。
会所の南方を流れる鍋田川から導水して北側の周濠へ排水する「木樋」、魚を鳥などの外敵から守る避難場所として池底に設置されていた「木枠」が展示されていた。
(展示物の写真撮影は禁止)
平成20年に会所が解体されると、新しい住宅地として再開発された。
大東市はその歴史を検証するうえで重要として、会所の北西隅の米蔵、道具蔵、船着場石段跡が残る土地を購入して、現在はその整備方法を検討中だ。
平野屋会所4.JPG
会所跡の東側に鎮座する坐摩神社は新田開発の頃に大阪の産土神である坐摩(いかすり)神社から勧請したという。
鳥居前は小公園で子供たちの遊び場になっている。
平野屋会所5.JPG
会所跡の北西側は濠跡の名残のある茂みに「農民感謝碑」がある。

かつて「会所」の周囲には河川や水路から農業用水を取水したり、内地の水を河川へ排水する樋門があった。
その名残が今もある。

会所跡の東方を流れる鍋田川の樋門からの導水が道路を跨いで会所跡へと流れる水口がある。
平野屋会所2.JPG
国道8号線沿いに会所跡の西側を流れる銭屋川から鍋田川へ排水する銭屋川排水機場がある。
平野屋会所1.JPG
会所跡の西方の谷川1丁目に樋門がある。
大東市役所前を流れるその新堀川で、野菜の一つの「クウシンサイ」を水耕栽培して水質浄化社会実験が行われている。
平野屋会所3.JPG
参考:
大東市役所「よみがえる平野屋新田会所」
http://www.city.daito.lg.jp/kakukakaranoosirase/syougaigakusyuubu/syougaigakusyuuka/bunkazai/rekisupo/1478520246280.html

大東市役所「平野屋新田会所とは」
http://www.city.daito.lg.jp/kakukakaranoosirase/syougaigakusyuubu/syougaigakusyuuka/bunkazai/hiranoya_shiminsupporter/hiranoyashindenkaisyo/hiranoyashindenkaisyotowa.html

ブログ版『大和川水紀行』<古民家を守るには?>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2016-06-05
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