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寝屋川市小路遺跡から四条畷へゆく

26日、JR学研都市線忍ヶ丘駅から北西へ徒歩約15分の讃良川の右岸(北岸)下に位置する寝屋川市の小路遺跡発掘調査現地説明会に参加した。
小路遺跡は寝屋川市小路北町および小路南町に広がる遺跡だ。
ここから古墳初期の竪穴住居跡7棟や多数の柱穴などが見つかった。
その南側では東から西に蛇行して流れる幅8m、深さ1.6mの自然河川とそれから分かれて西へ流れる幅2m、深さ1.3mの大溝が見つかった。
これまでの発掘調査で南北300m、東西300m以上の範囲に広がる大規模の古墳初期の集落があったとされ、この大溝は集落の西側に広がっていた田に自然河川から導水する用水路と考えられ、取水施設や100本を超える杭や矢板からなる護岸設備跡が見つかった。
小路遺跡1.JPG
また縄文中期~後期の土器が出土しており、近畿地方を代表する縄文中期の遺跡の隣接する讃良川遺跡の広がりが確認された。
讃良川遺跡では木の実を貯えておく貯蔵穴(ちょぞうけつ)の1箇所から底の部分にクリの実が見つかり、その役割を終えた後にゴミ穴として再利用されてセタシジミやマガキの貝殻、イノシシやシカの骨が見つかっている。
またクロダイ・スズキ・サメなどの魚の骨がみつかっており、魚を捕るための石や土器のかけらで作った漁網のおもりが出土している。
縄文中期としては府内最大の縄文土器が出土しており、東海・北陸・関東・東北地方の特徴をもった土器が見つかりその地域交流がうかがえる。

また大量の円筒埴輪が出土しており、小路遺跡の南東の四条畷市岡山にあった古墳前期で全長87mの前方後円墳の忍岡古墳との関係も注目されている。
忍陵神社の社殿の横にその後円部から見つかった竪穴式石室が保存されている。
小路遺跡4.JPG

讃良川の一部は修景整備され、地域住民で維持管理されている。
小路遺跡2.JPG
讃良川の左岸に新池がある。
小路遺跡3.JPG
旧東高野街道沿いに四条畷市立歴史民俗資料館がある。
第31回特別展『ヒスイのきらめきー北河内からみた交流と縄文のまつりー』が開催されていた。
四条畷市では更良(さら)岡山遺跡で7.5cmのヒスイ製の大珠(中央に孔があいており首飾りとされた)が見つかっている。
ヒスイは深緑の半透明な宝石の一つで、東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高く珍重された。
美しいヒスイは新潟県糸魚川市の姫川などの流域でしか採取されず、縄文中期(約5000年前)からその産地周辺で加工・流通したことから、北陸地方との交流をうかがわせるものだ。
弥生時代・古墳時代には祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などにも加工された。
小路遺跡5.JPG
JR四条畷駅から東へ約1km、飯盛山の西麓に四条畷神社が鎮座している。
楠木正行を主神としており、その楠木家が氏神とする千早赤阪村に鎮座する建水分神社は水の分配を司る水神を祭祀している。
またその社紋である菊水は楠木氏の家紋としても知られており、その名の如く上半分が菊、下半分が水の流れを表している。
平安末期には「河内湖」の大部分は陸地化して、その名残の池や湿地帯が点在する中を「旧大和川」が流れていた。
楠木一族が「河内国」を支配していく中で「水の流れ」を支配することの重要性から祈願したことがうかがえる。
境内には淀川治水の大事業に貢献した大橋房太郎の顕彰碑があり、ともに「水の流れ」を支配しようとしたことを称えているようだ。
小路遺跡6.JPG
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