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古代の景観シリーズ2「渡来人」

6日、難波宮跡公園で四天王寺ワッソが開催された。
1990年に四天王寺と谷町筋を舞台として始まってから今年で25回目だ。
今年は文化、心、友情を「育む」ことを大きなテーマとして掲げられていた。
つまり日本の伝統芸能は長い年月の中で日本独自の文化として育まれてきた。
538年の仏教伝来から長い歳月を経て日本の仏教として多くの人々の心を育んできた。
そして古代大阪は東アジアとの交流拠点、国際交流が活発に行われ多くの友情を育んできた。
それを現代に再現させた。

正午から天理大学雅楽部による雅楽「納曽利(なそり)」があった。
「納曾利」とは渤海、朝鮮半島からの音楽を中心とした舞楽に属する代表的な走舞(はしりまい)で、「双龍舞(そうりゅうのまい)」ともいわれ二匹の龍が戯れ遊んでいる様を舞にしたものとされている。
船着き場を模した中央ステージで、伝統楽器の篳篥などの奏でる中で勇壮な舞が舞われた。
その様子は大型電光モニターに映し出された。
ワッソ1.JPG
午後1時30分から巡行が始まった。
「神話の時代」から歴史順に当時の古代衣装を身にまとった朝鮮半島の国々から渡来した歴史上の人物とその使節団が巡行した。
そして大極殿のメインステージでは、同じく日本の歴史上の人物が彼らを出迎えた。
「古墳時代」では、メインゲストの浜村淳が演ずる「百済王・武寧王(ぶねいおう)」とその妃の「武寧王妃」と子の「聖明王」が舟だんじりに乗って巡行した。
ワッソ2.JPG
1392年に建国した「朝鮮王朝」では、獅子舞や「龍」などが華やかに巡行した。
ワッソ3.JPG
「難波宮」は645年の「乙巳の変」以降に孝徳天皇の難波長柄豊崎宮や天武天皇が副都とした前期難波宮と、その焼失後に再建された聖武天皇の後期難波宮が重層している。
それ以前にも仁徳天皇の高津宮もあるが、その遺構は今のところ確認されていない。

難波宮跡公園の東側に広がる難波宮内裏東方遺跡では、前期難波宮の高床式倉庫や建物跡や後期難波宮の回廊跡などが確認されている。
これらの建物群は宮殿中心部の周囲に配置された役所とされ、外国使節をもてなした迎賓館の機能をもった「望楼」の可能性があるという。
ちょうどこのあたりからJR森ノ宮駅へ向かって東へ急激に地形が下がっており、その「望楼」からは古代に広がっていた「河内湖」や生駒山を眺望できる絶好のロケーションだった。
ワッソ4.JPG
(大阪市教育委員会 大阪文化財研究所の案内板)
古代には外交使節が上陸した「難波津」があった。
その場所はいくつか説があるが、遷都や時代を経るごとに移動した可能性もある。

参考:
四天王寺ワッソ
http://wasso.net/

ブログ版『大和川水紀行』<「難波宮」と「難波津」を訪ねる>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2012-12-01
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