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古代の景観シリーズ1「馬」編

現在、大阪府立狭山池博物館特別展示室で『平成28年度特別展 河内の開発と渡来人 蔀屋北遺跡の世界」が開催されている。(開催中~2016.12.4日(日))
古代の馬研究会シンポジウム「河内の馬文化の源流を探る」が開催された。

狭山池の築造には朝鮮半島からの渡来人がもたらした敷葉工法などの土木技術が取り入れられた。
特別展では四条畷市の蔀屋北(しとみやきた)遺跡で出土した渡来系遺物などから狭山池築造前の渡来人の動向が展示されている。

蔀屋北遺跡は弥生時代から近世に至る複合遺跡だ。
生駒山地から西流する岡部川や讃良(さら)川によって形成された複合扇状地上に立地している。
古墳時代にはその氾濫によって形成された自然堤防の上に集落が営まれ、「河内湖」の東岸の一番奥部に位置していた。

蔀屋北遺跡では5世紀中頃~後半の多数の井戸跡が見つかっている。
その中の6基では上部の井戸枠に準構造船の船底や舷側板を転用されていた。
古墳時代には準構造船が瀬戸内海、大阪湾、「河内湖」を経由して朝鮮半島と蔀屋北遺跡間を航行して、馬を運んだ可能性が考えられている。

蔀屋北遺跡では古墳時代(5世紀)の土坑から馬の全身骨格が出土した。
体高は127cm前後で、宮崎県都井岬(といみさき)に生息している「御崎馬(みさきうま)」や愛媛県今治市に生息する「野間馬」の中型の日本在来馬であることがわかった。
現在、復元されたその全身骨格が大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されている。

木製の鞍や輪鐙などの実用的な馬具、多量の製塩土器なども多数出土したことから牧の経営(馬の飼育)を生業とする馬飼集団の集落「河内の牧」跡であった。

八尾南遺跡でも木製の鞍が出土しており、5世紀代の馬飼いの「ムラ」の跡とされている。
5世紀初期から八尾南遺跡など生駒西麓の「河内湖」周辺で馬に関する遺物が散発的に確認されている。
5世紀頃にわが国の玄関口だった「河内」に渡来人とともに馬や馬を使い慣らす技術が朝鮮半島から伝来したことを示している。
四条畷市の遺跡で馬や「牧」に関する遺物が多く出土していることから、5世紀中頃から牧の経営が本格的に始まったとされている。
『日本書紀』の応神天皇15年8月に、「百済は阿直伎と馬を献上。阿直伎は馬飼であり。」と記されており、文献上でも確認されている。

遺跡から牛馬の骨が大量に出土しているが、その意味合いは時代で少し異なる。
5世紀頃の牛馬は所有物として王権の威信を示すものとされたが、7世紀頃なると祭祀物として生贄にされ、平城京の内外で様々な祭祀が行われた。

『日本書紀』には675(天武4)年に「牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫」、『続日本紀』には741(天平13)年に「馬や牛は人に代って働き、人間を養ってくれる。このため先に明らかな制度を立てて、屠殺することを禁じた」と記されている。
牛馬の肉食や生贄の習慣が禁止される一方で、国家祭祀として神々の移動手段とした「馬」が奉納されている。
『続日本紀』には763(天平宝字7)年に日照りのために「丹生河上神(大和国吉野郡丹生川上神社。雨乞いの神)には、幣帛の他に黒毛の馬を加えて奉った」と記されている。
雨乞いには雨雲を示す「黒」を、日乞いには晴天を示す「白」や太陽を示す「赤」の馬が奉納された。
律令制に伴いその禁止令が出されると、それに代わって土で作られた馬や絵馬を捧げるようになった。
完形品で出土することが少ないことから疫病などの災厄を広めないように土馬の足を折って流したとする説もある。

四条畷市の讃良郡条里遺跡では絵馬が出土している。
古代馬1.JPG
(写真は柏原市立歴史資料館夏季企画展『まじなう』の展示作品)
現在でも「馬」が神の使いとして信仰されている。
古代馬2.JPG
(石切神社の「神馬」)
参考:
大阪府立狭山池博物館
http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/tokuten.html#spex201610

大阪府庁「蔀屋北遺跡から出土した馬の全身骨格」
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/23-1sitomiyaumadokou.html

大阪府庁「蔀屋北遺跡現地説明会」
http://www.gensetsu.com/060812sitomiyakita/doc1.htm
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