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大和八木駅から飛鳥川を下って藤原宮跡へ

大和八木駅南口から南東に10分ほど歩いたところに「八木の札の辻交流館」(旧平田家)がある。
「八木の札の辻」というのは古代の主要道路「下ツ道(のちの中街道)」と「横大路(のちの初瀬街道、伊勢街道)」との交差点のことだ。
この界隈は江戸時代中期以降、伊勢参りや大峯への参詣巡礼などで賑わった。
その当時、旅籠だった頃の風情を残している。
客間の欄干には伊勢の二見ヶ浦などの装飾が施されている。
『西国三十三所名所図会』には六角形の井戸を中心とした町の賑わいが描かれている。
その井戸は道路に合わせて半分だけ残っている。
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西の初瀬街道沿いに「センタイバ」(接待場)や御蔭灯籠が残っている。
南の「下ツ道」沿いは杉玉を吊るした酒屋など伝統的な民家が並んでいる。

少し東に入ったところにおふさ観音がある。
この一帯にはかつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる大きな池があり、この地で暮らす「おふさ」という娘がそのそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が目の前に現れ、池のそばに小さなお堂を建てて観音様を祀ったのが始まりだという。
本堂の裏にそのゆかりの「亀の池」や「鯉の池」がある。
その池を取り込んだ回遊式の日本庭園「円空庭」となっている。
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飛鳥川沿いに上ると右岸に鷺栖神社(四分町)がある。
その由緒によれば、大和三山の中心地にあり、付近には「鷺栖池」があったという。
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四分橋を越えた右岸下に「出水公園」がある。
飛騨地区の住環境整備に合わせて、その頃の面影を残した公園として整備されて井戸や木々が残っている。
八木4.JPG
飛鳥川の東方に広がるのが藤原宮跡だ。
その朱雀大路の溝跡が復元されている。
幅4m、深さ0.4mの南北大溝二条が検出され、幅19mの大路と確認されている。
藤原宮1.JPG
『万葉集』には「藤原御井の歌」が残っているが、今のところ藤原宮跡で考古学的には確認されていない。
大極殿跡の北方には道路を挟んで醍醐池があり、かつて内裏があった。
その北東は醍醐町で環濠集落跡だ。
藤原宮の北西辺にあった海犬養門趾の礎石と伝わる巨石が水路内にある。

藤原京はわずか16年間で終わった。
その一因として飛鳥川の右岸の低地にあって排水・汚水の問題が挙げられている。


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